(01)
遂に出た!二畳庵主人『漢文法基礎』
まだ現物を見ていませんが、幻の書と言われた漢文の解説本が復刊されました。
2chの漢文参考書スレには必ずといっていいほど登場する本。
そして古本では必ず1万円以上する!!
というのも、いわゆる受験参考書だったために一般に流布せず、従って、国会図書館にも蔵書がなければ、地域や大学図書館などにもほぼ蔵書がないというものでした。扱いとしては図録と同じですね。でも、最近は図録は図書館でも見かけるようになりました。知る人ぞ知る、『漢文法基礎』です。久々に「買い」の本が出ましたよ。本は買わない宣言しちゃいましたが、今年はこの1冊だけ買って打ち止めにしようとすら思ってます。たぶんあまり数を刷っていないででしょうから、学術文庫版も早晩、品切れになるかと思われます。買うなら今です(古田島洋介、FC2ブログ、古代中国箚記)。
然るに、
(02)
豈以為非是、而不貴也。
この傍線部分をどう読むかが問題である。
― 中略、―
「以為」は、ふつうなら「もって・・・・・となす」と読み、要するに「おもう、おもえらく」と同じことだから、全体的にはさして重要なことばではない。
そこで代数でいこう。「是」をa、「貴」をbとする。「豈」はどうなるかというと、これは反語表現マイナスで表せる。すると、
① -(-a)+(-b)、
② -(-a-b) の二つが考えられる。
そこで括弧を解いてみよう。
① の場合、a-b となり、a・bにもとの意味を入れてみると「是、而不貴」である。訳してみると「(薄葬を)よろしいと考えるが、(薄葬を)尊重しない」というわけのわからないことになってしまって、アウト。
② の場合、-(-a-b)=a+b となるから「是、而貴」となる。訳してみると「(薄葬を)よろしいと考えて、尊重している」となって、墨家の立場をはっきりしめすことになる。
だからこの文章の場合、必ず②のように、「豈」(反語表現だから「不」は全体にかからねばならない。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年10月、326・327頁)
従って、
(01)(02)により、
(03)
『(知る人ぞ知る)漢文法基礎』によると、
① 豈(非是而不貴)
② ( 是而 貴)
に於いて、
①=② である。
然るに、
(02)により、
(04)
① 豈(非是而不貴)
に於いて、
豈=否定(~)
非=否定(~)
不=否定(~)
而=&
従って、
(03)(04)により、
(05)
『(知る人ぞ知る)漢文法基礎』によると、
① ~(~是&~貴)
② ( 是& 貴)
に於いて、
①=② である。
然るに、
(06)
(ⅱ)
1 (1) 是& 貴 A
2 (2) ~是∨~貴 A
3 (3) ~是 A
1 (4) 是 1&E
1 3 (5) ~是& 是 34&I
3 (6) ~(是& 貴) 1RAA
7(7) ~貴 A
1 (8) 貴 1&E
1 7(9) ~貴&貴 78&I
7(ア) ~(是& 貴) 79RAA
2 (イ) ~(是& 貴) 2367ア∨E
12 (ウ) (是& 貴)&
~(是& 貴) 1イ&I
1 (エ)~(~是∨~貴) 2ウRAA
(ⅲ)
1 (1)~(~是∨~貴) A
2 (2) ~(是& 貴) A
3 (3) ~是 A
3 (4) ~是∨~貴 3∨I
1 3 (5)~(~是∨~貴)&
(~是∨~貴) 14&I
1 (6) ~~是 35RAA
1 (7) 是 6DN
8(8) ~貴 8
8(9) ~是∨~貴 8∨I
1 8(ア)~(~是∨~貴)&
(~是∨~貴) 19&I
1 (イ) ~~貴 8アRAA
1 (ウ) 貴 イDN
1 (エ) 是& 貴 7ウ&I
12 (オ) ~(是& 貴)&
(是& 貴) 2エ&I
1 (カ)~~(是& 貴) 2オRAA
1 (キ) 是& 貴 カDN
従って、
(06)により、
(07)
② 是& 貴
③ ~(~是∨~貴)
に於いて、
②=③ は、「ド・モルガンの法則」である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
① ~(~是&~貴)
② ( 是& 貴)
③ ~(~是∨~貴)
に於いて、
①=② は『(知る人ぞ知る)漢文法基礎』 であって、
②=③ は『(有名な)ド・モルガンの法則』である。
然るに、
(08)により、
(09)
① ~(~是&~貴)
② ( 是& 貴)
③ ~(~是∨~貴)
に於いて、
①=② であって、
②=③ であるとすれば、
① ~(~是&~貴)
③ ~(~是∨~貴)
に於いて、
①=③ である。
然るに、
(10)
① ~(~是&~貴)
③ ~(~是∨~貴)
に於いて、
① は「連言(&)の否定」であって、
③ は「選言(∨)の否定」である。
従って、
(10)により、
(11)
① ~(~是&~貴)
③ ~(~是∨~貴)
に於いて、
①=③ ではなく、
①≠③ である。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
① ~(~是&~貴)
② ( 是& 貴)
③ ~(~是∨~貴)
に於いて、
①≠③ であって、
③=② は、「ド・モルガンの法則」であるため、
①≠② である。
従って、
(02)~(12)により、
(13)
豈以為非是、而不貴也。
この傍線部分をどう読むかが問題である。
① -(-a)+(-b)、
② -(-a-b) の二つが考えられる。
② の場合、-(-a-b)=a+b となるから「是、而貴」となる。訳してみると「(薄葬を)よろしいと考えて、尊重している」となって、墨家の立場をはっきりしめすことになる。
といふ「解釈」は、「ド・モルガンの法則」からすると、『誤解』である。
然るに、
(14)
(ⅰ)
1 (1)~(~是&~貴) A
2 (2) ~貴 A
3(3) ~是 A
23(4) ~是&~貴 23&I
123(5)~(~是&~貴)&
(~是&~貴) 14&I
12 (6) ~~是 35RAA
12 (7) 是 6DN
1 (8) ~貴→ 是 27CP
(ⅱ)
1 (1) ~貴→ 是 A
2 (2) ~是&~貴 A
2 (3) ~貴 2&E
12 (4) 是 13MPP
2 (5) ~是 2&E
12 (6) ~是& 是 45&I
1 (7)~(~是&~貴) 26RAA
従って、
(14)により、
(15)
① ~(~是&~貴)
② ~貴→ 是
に於いて、
①=② は、「含意の定義」である。
従って、
(04)(15)により、
(16)
① 豈〔非(是)而不(貴)〕也。
② 不(貴)則為(是)也。
に於いて、すなはち、
① 豈に、是に非ずとして、貴ばざらんや。
② 貴ばずんば、則ち、是と為すなり。
に於いて、すなはち、
① どうして、正しくないとして、貴ばないことがあらうか。
② 貴ばないとしたら、正しいとしてゐるのである。
に於いて、
①=② であるが、これだけでは、「分けがわからない」。
然るに、
(17)
吾聞夷子墨者。墨之治喪也、以薄為其道也。夷子思以易天下。豈以為非是而不貴也。然而夷子葬其親厚。則是以所賤事親也=
吾聞夷子墨者。墨之治(喪)也、以(薄)為(其道)也。夷子思〔以易(天下)〕。豈以為〔非(是)〕而不(貴)也。然而夷子葬(其親)厚。則是以〔所(賤)〕事(親)也=
吾聞く、夷子は墨者なり。墨の喪を治むるや、薄きを以て其の道と為す。夷子は以て天下を易へんと思ふ。豈に以て是に非ずと為して貴ばざらんや。然り而して夷子は其の親を葬ること厚し、と。則ち是れ賤しむ所を以て親に事ふるなり。
(『孟子』巻第五藤文公章句上 五十一節)
従って、
(16)(17)により、
(18)
「薄葬」=「墨子の主義」
「厚葬」=「孟子の主義」
であるとして、
① どうして、正しくないとして、貴ばないことがあらうか。
②(墨子の主義を)貴ばないとしたら、(孟子の主義を)正しいとしてゐるのである。
に於いて、
①=② であるならば、「意味が分かる」。
―「昨日(03年04月24日)の記事」を補足します。―
(01)
「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)。
然るに、
(02)
ただ単に、『「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という「範囲」のことである。』
とするならば、例へば、
③ 我読漢文。
といふ「白文」に於いて、
③「我」は、「読」 には、「管到してゐる (係ってゐる) 」として、それならば、
③「我」は、「漢文」には、「管到してゐない(係ってゐない)」のか、といふ「質問」が、予想される。
然るに、
(03)
① 訓‐読漢文=
① 訓‐読(漢文)⇒
① (漢文)訓‐読=
① (漢文を)訓読す。
然るに、
(04)
② 訓読漢文=
② 訓読(漢文)⇒
② 訓(漢文)読=
② 訓にて(漢文を)読む。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① (漢文を)訓‐読す。
② 訓にて(漢文を)読む。
に於いて、
①=② である。
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
① 訓‐読漢文。
に於ける、
① 訓‐
が、さうであるやうに、
② 訓読漢文=
② 訓読(漢文)⇒
② 訓(漢文)読=
② 訓にて(漢文を)読む。
といふ「漢文・訓読」に於ける、
② 訓で(副詞) の「意味」は、
② 読む(動詞) を介して、
② 漢文(補語) に、「管到してゐる(係ってゐる)」。
従って、
(06)により、
(07)
③ 我読漢文=
③ 我読(漢文)⇒
③ 我(漢文)読=
③ 我(漢文を)読む。
といふ「漢文・訓読」に於いも、
③ 我(副詞) の「意味」は、
③ 読(動詞) を介して、
③ 漢文(補語) に、「管到してゐる(係ってゐる)」。
従って、
(02)(07)により、
(08)
③ 我読漢文。
といふ「白文」に於いて、
③「我」は、「読」 には、「管到してゐる (係ってゐる) 」として、それならば、
③「我」は、「漢文」には、「管到してゐない(係ってゐない)」のか、といふ「質問」に対しては、
③ 我読漢文。
といふ「白文」に於いて、
③ 我(副詞) の「意味」は、
③ 読(動詞) を介して、
③ 漢文(補語) に、「管到してゐる(係ってゐる)」。
といふ風に「説明」することが、「可能」となる。
然るに、
(09)
③ 我読漢文(I read 漢文)。
に於いて、
③「我」は「副詞」である。
とするならば、
③「漢文」に於ける、
③「我」は、「人称代名詞」ではないのか(?)。
といふ「質問」が、予想される。
然るに、
(10)
「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。どうしても区別したいなら「人称名詞」で十分だ。日本語の「人称代名詞」はこれからは「人称名詞」と呼ぼう(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、40・41頁)。
然るに、
(11)
修辞法でも、自分のことをわざと気取って第三者的に「人」と呼んだり、身分面では、天子は「朕」、諸侯は「寡人」、臣下は「臣」と称するなど、漢文における一人称および一人称的に使われる語彙はきわめて豊富である。この感覚は日本人にもわかりやすい(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、36頁)。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
③ 我読漢文(I read kanbun)。
に於いて、
③「我」は、「人称代名詞」ではないのか(?)。
といふ「質問」に対しては、
③『といふよりも、「日本語や漢文」には、「英語やフランス」で言ふところの、「人称代名詞」は、初めから無い。』
といふ風に、「答へる」ことになる。
然るに、
(13)
その場合、『それならば、「我」は単なる「名詞」であって、「名詞」が、「副詞」になることがあるのか(?)。』
といふ「質問」が、予想される。
然るに、
(14)
しかし漢文で用いられる単語≒漢字は、品詞によって外形が変わることがありません。名詞になったからといって点画が増えたり、動詞になったからと言ってハライがハネに変わったり、そういうことはないのです。「難」という語は、形容詞であっても動詞であっても名詞であっても、「難」そのままです。逆に言えば「難」という字を見ただけでは形容詞なのか動詞なのか名詞なのか、判断をつけることができません。結局のところ「難」という字がどこに置かれているか、つまり語順と文脈から判定せざるを得ないのです(漢文獅子韜)。
従って、
(13)(14)により、
(15)
『それならば、「我」は単なる「名詞」であって、「名詞」が、「副詞」になるのか(?)。』
といふ「質問」に対しては、
『漢文の場合は、少なくとも、外形(見た目)から「品詞」を区別することは、出来ない。』
といふ風に、「答へる」ことになる。
従って、
(01)~(15)により、
(16)
①「我」の「意味」は、
①「非」を介して、
①「必不求以解中文法解漢文者」に及んでゐる。
として、
① 我非必不求以解中文法解漢文者也。
の「管到(どこまで係るか)」を「括弧」で表すならば、
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
と思ふのですが、「さう考へても良いですか(?)。」
といふ風に、明治大学の、加藤徹先生(漢文20面相)に、「質問」することが、出来る。
然るに、
(17)
漢語文法の基礎となっている文法的関係として、次の四つの関係(構造)をあげることができる。
(一)主述構造 主語―述語
(二)修飾構造 修飾語―被修飾語
(三)補足構造 叙述語―補足語
(四)並列構造 並列語―並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281・282頁改)
(18)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
① 我非必不求以解中文法解漢文者也。
といふ「白文」の「管到」が、
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
であるならば、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を、行ふと、
① 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
① 我〈必{[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
① 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也=
① 私は〈必ずしも{[〔(中国語を)読解する法を〕用ひて(漢文を)読解することを]求め}ない者では〉ないのです。
といふ「訓読の語順」を、得ることになる。
然るに、
(20)
大学では、これまでなじみのある訓読という方法によらず、現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。音そのもののひびきの美しさを体得できるよう、古典・現代のいずれに関心がある場合でも、入学後は現代中国語を充分に習得してください。
(京都大学、文学部受験生向けメッセージ)
(21)
「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという。
(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)
従って、
(16)(21)により、
(22)
① 我非必不求以解中文法解漢文者也。
といふ「白文(作例)」の「訓読」が、
① 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざる也。
で良いのか、といふことを、
明治大学の、加藤徹先生(漢文20面相)ではなく、
京都大学の、漢文の先生に、「質問」してはならない。
然るに、
(23)
まず北京語に拠る可しと云うことが常識的には考えられるが、併し北京語は入声が無くなっているから古書を読むのには音韻上遺憾無き能わず。寧ろ南方の田舎の音で古音に近い地方の音を採用するか。最も理想的としては、古音の研究をどしどし進めてことだ、併しそれを云う可くして容易には行われまい。
(牛島徳治、中国古典の学び方、1977年、13・14頁)
従って、
(20)(23)により、
(24)
>現代中国語の知識を前提として、中国語の音によってそのまま読んでいきます。
とは言ふものの、その場合であっても、
>寧ろ南方の田舎の音で古音に近い地方の音を採用する。
といふことを、京大の先生には、期待したい。
(01)
ブログを始めた当初から、これまでに、何度も示してゐる通り、
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
2 (2)∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)} A
3 (3)∃x(兎x&象x) A
1 (4) 象a→∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 1UE
2 (5) 兎a→∃y(耳ya&長y)&∀z(耳za→~鼻za) 2UE
6 (6) 兎a&象a A
6 (7) 象a 6&E
6 (8) 兎a 6&E
1 6 (9) ∃y(鼻ya&長y)&∀z(~鼻za→~長z) 48MPP
2 6 (ア) ∃y(耳ya&長y)&∀z(耳za→~鼻za) 57MPP
1 6 (イ) ∃y(鼻ya&長y) 9&E
ウ (ウ) 鼻ba&長b A
2 6 (エ) ∃y(耳ya&長y) ア&E
オ(オ) 耳ba&長b A
オ(カ) 耳ba オ&E
2 6 (キ) ∀z(耳za→~鼻za) ア&E
2 6 (ク) 耳ba→~鼻ba キUE
2 6 オ(ケ) ~鼻ba カクMPP
1 6 (コ) ∀z(~鼻za→~長z) ア&E
1 6 (サ) ~鼻ba→~長b コUE
12 6 オ(シ) ~長b ケサMPP
オ(ス) 長b オ&E
12 6 オ(セ) 長b&~長b シス&I
12 6 (ソ) 長b&~長b エオセEE
123 (タ) 長b&~長b 36ソEE
12 (チ)~∃x(兎x&象x) 3タRAA
12 (ツ)∀x~(兎x&象x) チ量化子の関係
12 (テ) ~(兎a&象a) ツUE
12 (ト) ~兎a∨~象a テ、ド・モルガンの法則
12 (ナ) 兎a→~象a ト含意の定義
12 (ニ)∀x(兎x→~象x) ナUI
従って、
(01)により、
(02)
(ⅰ)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。然るに、
(ⅱ)∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)}。従って、
(ⅲ)∀x(兎x→~象x)。
といふ「推論(三段論法)」、すなはち、
(ⅰ)象は鼻が長い。然るに、
(ⅱ)兎の耳は長いが、耳は鼻ではない。従って、
(ⅲ)兎は象ではない。
といふ「推論(三段論法)」は、「妥当」である。
然るに、
(03)
アメリカの論理学者パースはレーマという概念を導入した。例をあげると、「・・・は善良である」、「・・・は―――を愛する」、「・・・は―――に与える」といったものである。つまりレーマとは、いくつかの空白的部分をもつ文のことである。ところでこのレーマは現在の論理学のことばでいえば、明らかに命題関数である。
つまり、f(x)、f(x、y)、f(x,y)といったものである(山下正雄、論理学史、1983年、95頁)。
従って、
(02)(03)により、
(04)
兎(x) は、「命題関数(レーマ)」であって、
象(x) も、「命題関数(レーマ)」である。
然るに、
(05)
~象(x) は、
象(x) の、「全体の、否定」であるため、
~〔象(x)〕 でなければ、ならない。
従って、
(04)(05)により、
(06)
∀x(兎x→~象x)
という「論理式(wff)」は、
∀x[兎(x)→~〔象(x)〕]
といふ風に、書くならば、「括弧の省略」は無い。
従って、
(02)(06)により、
(07)
1 (1)∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)} A
2 (2)∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)} A
といふ「論理式(wff)」は、
1 (1)∀x{象(x)→∃y〔鼻(yx)&長(y)〕&∀z[~〔鼻(zx)〕→~〔長(z)〕]} A
2 (2)∀x{兎(x)→∃y〔耳(yx)&長(y)〕&∀z[ 耳(zx) →~〔鼻(zx)〕} A
といふ風に、書くならば、「括弧の省略」は無い。
然るに、
(08)
① ∀x{象(x)→∃y〔鼻(yx)&長(y)〕&∀z[~〔鼻(zx)〕→~〔長(z)〕]}
② ∀x{兎(x)→∃y〔耳(yx)&長(y)〕&∀z[ 耳(zx) →~〔鼻(zx)〕}
に於ける、「命題関数(レーマ)」に於いて、
□( )⇒□
□〔 〕⇒□
といふ「移動」を行ふと、
① ∀x{(x)象→∃y〔(yx)鼻&(y)長〕&∀z[〔(zx)鼻〕~→〔(z)長〕~]}
② ∀x{(x)兎→∃y〔(yx)耳&(y)長〕&∀z[ (zx)耳 →〔(zx)鼻〕~}
となって、「左から右へ」、
① すべてのxについて{xが象であるならば、あるyはxの鼻であって、長く、すべてのzについて[zがxの鼻でないならば、zは長くない]}。
② すべてのxについて{xが兎であるならば、あるyはxの耳であって、長く、すべてのzについて[zがxの耳であるならば、zはxの鼻ではない]}」。
という「語順」になる。
然るに、
(09)
記号論理学は、英語などヨーロッパ語を母国語とする文化圏でもっぱら開発された学門であるにもかかわらず、論理学者の母語よりも日本語のような外国語の文法に合致している部分が少なくない(もちろん逆もある)。このことは、論理学が、ローカルな日常言語ではなく言語的な普遍論理をかなり再現しおおせている証しと言えるだろう(三浦俊彦、ラッセルのパラドックス、2005年、105頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
① ∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}
② ∀x{兎x→∃y(耳yx&長y)&∀z(耳zx→~鼻zx)}
といふ「人工言語」は、日本人の我々であれば、初めから、
① ∀x{x象→∃y(yx鼻&y長)&∀z(zx鼻~→z長~)}
② ∀x{x兎→∃y(yx耳&y長)&∀z(zx耳→zx鼻~)}
といふ「語順」で書いて、
① すべてのxについて{xが象であるならば、あるyはxの鼻であって、長く、すべてのzについて、zがxの鼻でないならば、zは長くない}。
② すべてのxについて{xが象であるならば、あるyはxの耳であって、長く、すべてのzについて、zがxの耳であるならば、zはxの鼻ではない}。
という風に「訓読」しても、「何らの問題」も無い。
然るに、
(11)
数年前、ある言語学教育関連の新聞の連載のコラムに、西洋文化研究者の発言が載せられていた。誰もが知る、孟浩然の『春眠』「春眠暁を覚えず・・・・・・」の引用から始まるそのコラムでは、なぜ高校の教科書にいまだに漢文訓読があるのかと疑問を呈し、「返り点」をたよりに「上がったり下がったりしながら、シラミつぶしに漢字にたどる」読み方はすでに時代遅れの代物であって、早くこうした状況から脱するべきだと主張する。「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く筆者は、かつては漢文訓読が中国の歴史や文学を学ぶ唯一の手段であり「必要から編み出された苦肉の知恵であった」かもしれないが、いまや中国語を日本にいても学べる時代であり「漢文訓読を卒業するとき」だと主張するのである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、1頁)。
従って、
(10)(11)により、
(12)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く西洋文化研究者は、
「述語論理とは異なり、漢文は、自然言語であって、人工言語などでは、決してない。」と思っている、ことになる。
然るに、
(13)
文語体と口語体の区別は、もし簡便な基準を探すとなれば、それは耳で聞いてわかるのが口語体で、目で見なければわからないのが文語体だ、といえる。(「開明文言読本」開明書店、1948、導言)呂叔湘氏は人も知る「中國文法要略」(商務印書館、1942)の著者であり、解放後は中國科学院言語研究所長を勤めている超一流の言語学者であり、文化人である。
(牛島徳次、中國語の学び方、1977年、60頁)
然るに、
(14)
「耳で聞いてもわからず、目で見なければわからない自然言語が、母国語である国など、世界中のどこにも、無い。」
従って、
(11)~(14)により、
(15)
「どこの国に外国語を母国語の語順で読む国があろう」かと嘆く西洋文化研究者は、
「述語論理とは異なり、漢文は、自然言語であって、人工言語などでは、決してない。」と思っているものの、
「耳で聞いてもわからず、目で見なければわからない漢文が、自然言語であるはずがない」ため、
「どこの国に、漢文を、母国語の語順で読む国があろう」かと嘆くこと自体が、「間違ひである。」と、すべきである。
(16)
シナや極東の王国では、一般に文字をも語を表わすのではなく、事物あるいは観念を表わすような、実物符号で書くのがならいになっている。そしてそれゆえに、たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができるのであるが、それは符号のほうが言語の及ばぬほど広い範囲に了解されるからである。そしてそれゆえに、語根語と(おそらく)同じほどばく大な数の符号があるのである(服部英次郎、多田英次、ベーコン、学問の進歩 他、2005年、124頁)。
然るに、
(17)
「たがいに相手の言語を理解しない国々と地方が、それにもかかわらず、たがいに相手の書き物を読むことができる。」
ということは、「素晴らしいこと」であるに、違ひない。
従って、
(18)
「漢文」は、むしろ、「日本語」としても、「理解できる」からこそ、その点に於いては、例へば、「ラテン語よりも、優れてゐる」とすべきである。
然るに、
(19)
少数の天才的なひとたちあるいは秀才たちは、返り点・送り仮名をつけなくとも正確な漢文の理解に至るであろう。李氏朝鮮の儒学のレベルの高さはそういう少数の秀才や天才に負うものである。・・・・・・しかし大多数のコリア人にとって、シナの古典は近づき難い高峰であった」(渡辺昇一、『英文法を撫でる』PHP新書、頁は不明)。
然るに、
(20)
日本のような漢文訓読法がなかった朝鮮では、純正漢文を読めたのは上流知識人に限られた。読書層は日本にくらべると薄く、朝鮮の対日認識は限定的なものにとどまった。極論すれば、漢文訓読法をもてなかったことが、朝鮮が近代において日本に圧倒されるようになった遠因の一つとなった
(加藤徹、漢文の素養、2006年、199頁)。
従って、
(16)~(20)により、
(21)
「漢文」は、例へば、「朝鮮語」としても、「理解できた」はずであるが、「日本人」とは異なり、「朝鮮人」は、それをしなかった、ということになる。
(01)
(ⅱ)
1(1) ∀x(Fx→~Gx) A
1(2) Fa→~Ga 1UE
1(3) ~Fa∨~Ga 2含意の定義
1(4) ~(Fa& Ga) 3ド・モルガンの法則
1(5)∀x~(Fx& Gx) 4UI
1(6)~∃x(Fx& Gx) 5量化子の関係
(ⅲ)
1(1)~∃x(Fx& Gx) A
1(2)∀x~(Fx& Gx) 1量化子の関係
1(3) ~(Fa& Ga) 1UE
1(4) ~Fa∨~Ga 3ド・モルガンの法則
1(5) Fa→~Ga 4ド・モルガンの法則
1(6) ∀x(Fx→~Gx) 5UI
従って、
(01)により、
(02)
② ∀x(Fx→~Gx)≡すべてのxについて(xがFならば、xはGでない)。
③ ~∃x(Fx& Gx)≡(Fであって、Gであるx)は存在しない。
に於いて、
②=③ である。
従って、
(02)により、
(03)
② ∀x(馬x→~千理x)≡すべての馬は、千里ではない。
③ ~∃x(馬x& 千里x)≡千里の馬は存在しない。
然るに、
(04)
① 千里馬常不レ有≡千里の馬は、常に有らず。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 千里馬常不レ有≡千里の馬は、常に有らず。
② ∀x(馬x→~千理x)≡すべての馬は、千里ではない。
③ ~∃x(馬x& 千里x)≡千里の馬は存在しない。
に於いて、
①=②=③ である。
cf.
全部否定(All negative)
(06)
(ⅴ)
1 (1)~∀x(Fx→Gx) A
1 (2)∃x~(Fx→Gx) 1量化子の関係
3(3) ~(Fa→Ga) A
3(4) ~(~Fa∨Ga) 3含意の定義
3(5) Fa&~Ga 4ド・モルガンの法則
3(6)∃x(Fx&~Gx) 5EI
1 (7)∃x(Fx&~Gx) 136EE
(ⅵ)
1 (1)∃x(Fx&~Gx) A
2(2) Fa&~Ga A
2(3) ~(~Fa∨Ga) 2ド・モルガンの法則
2(4) ~(Fa→Ga) 3含意の定義
2(5)∃x~(Fx→Gx) 4EI
1 (6)∃x~(Fx→Gx) 125EE
1 (7)~∀x(Fx→Gx) 6量化子の関係
従って、
(06)により、
(07)
⑤ ~∀x(Fx→ Gx)≡(すべてのxについて(xがFならば、xはGである))といふわけではない。
⑥ ∃x(Fx&~Gx)≡(Fであって、Gでないx)が存在する。
に於いて、
⑤=⑥ である。
従って、
(07)により、
(08)
⑤ ~∀x(馬x→ 千里x)≡(すべての馬が、千里である)といふわけではない。
⑥ ∃x(馬x&~千里x)≡(千里ではない、馬)が存在する。
然るに、
(09)
④ 千里馬不二常有一≡千里の馬は、常には有らず。
従って、
(08)(09)により、
(10)
④ 千里馬不二常有一≡千里の馬は、常には有らず。
⑤ ~∀x(馬x→ 千里x)≡(すべての馬が、千里である)といふわけではない。
⑥ ∃x(馬x&~千里x)≡(千里ではない、馬)が存在する。
に於いて、
④=⑤=⑥ である。
cf.
部分否定(Partially negative)
然るに、
(11)
① 千里馬常不有≡千里の馬は、常に、有らず。
④ 千里馬不常有≡千里の馬は、常には有らず。
といふ「漢文」は、「順番」に、
① 千里馬常レ不レ有≡千里の馬は、有ら不ること、常なり。
④ 千里馬不レ常レ有≡千里の馬は、有ること、常なら不。
といふ風にも、「読むこと」が出来る。
cf.
(原田種成、私の漢文講義、1995年、56頁)
(01)
借虎威(戦國策)
① 虎求(百獸)而食(之)得(狐)。
② 狐曰子無〔敢食(我)〕也。
③ 天帝使〔我長(百獸)〕。
④ 今子食(我)是逆(天帝命)也。
⑤ 子以(我)爲〔不(信)〕吾爲(子)先行。
⑥ 子隨(我後)觀。
⑦ 百獸之見(我)而敢不(走)乎。
(借虎威、戦國策)
従って、
(01)により、
(02)
① 虎(百獸)求而(之)食(狐)得。
② 狐曰子〔敢(我)食〕無也。
③ 天帝〔我(百獸)長〕使。
④ 今子(我)食是(天帝命)逆也。
⑤ 子(我)以〔(信)不〕爲吾(子)爲先行。
⑥ 子(我後)隨觀。
⑦ 百獸之(我)見而敢(走)不乎。
従って、
(02)により、
(03)
① 虎百獸を求めて之を食らひ狐を得たり。
② 狐曰く、子敢へて我を食らふこと無かれ。
③ 天帝、我をして百獸に長たら使む。
④ 今、子我を食らはば、是れ天帝の命に逆らふなり。
⑤ 子我を以て信なら不と爲さば、吾子の爲に先行せむ。
⑥ 子我が後に隨ひて觀よ。
⑦ 百獸之我を見て敢へて走ら不らんや、と。
然るに、
(04)
⑦ 敢不(走)乎⇒
⑦ 敢(走)不乎=
⑦ 敢へて(走ら)ざらんや=
⑦ 敢へて逃げないなどといふことが、あるだろうか。
は「反語」である。
cf.
【走】②《動》にげる。はや足でにげる。
(学研 緩和大辞典、1978年、1269頁)
従って、
(04)により、
(05)
「番号」を付け直すと、
① 敢不走乎(敢へて走らざらんや)。
② 不敢不走(敢へて走らずんばあらず)。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(06)
① 敢不走乎(敢へて走らざらんや)。
ではなく、
① 敢不走(敢へて走らず)。
であるならば、「反語」ではない。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 敢不走(敢へて走らず)。
② 不敢不走(敢へて走らずんばあらず)。
に於いて、
① は、② の「否定」であって、
② は、① の「否定」である。
然るに、
(08)
①「逃げたくない」といふ「気持ち」。
②「逃げたい」 といふ「気持ち」。
といふ、「(アンビバレントな、)二つの気持ち」があって、
① の方が、②よりも、大きい。のであれば、
① 敢不走(敢へて走らず)。といふことなる。
従って、
(07)(08)により、
(09)
①「逃げたくない」といふ「気持ち」。
②「逃げたい」 といふ「気持ち」。
といふ、「(アンビバレントな、)二つの気持ち」があって、
② の方が、① よりも、大きい。のであれば、
② 不敢不走(敢へて走らずんばあらず)。といふことになる。
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
① 敢不走(敢へて走らず)。
② 不敢不走(敢へて走らずんばあらず)。
に於いて、「順番」に、
① 敢へて逃げない。
② 敢へて逃げる。
といふことになる。
然るに、
(11)
「不走(逃げない)」といふことは、
「止(とどまる)」といふことである。
従って、
(10)(11)により、
(12)
① 敢止(敢へて止まる)。
② 不敢止(敢へて止まらず)。
に於いて、「順番」に、
① 敢へて逃げない。
② 敢へて逃げる。
といふことになる。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
「順番」を付け直すと、
① 敢不走(敢へて走らず)。
② 敢 止(敢へて止まる)。
③ 不敢不走(敢へて走らずんばあらず)。
④ 不敢 止(敢へて止まらず)。
に於いて、
①=② であって、
③=④ であって、
① と ③ は「矛盾」し、
② と ④ は「矛盾」する。
従って、
(13)により、
(14)
① 敢視(敢へて視る)。
② 不敢視(敢へて視ず)。
に於いて、
① と ② は「矛盾」する。
従って、
(09)(14)により、
(15)
①「視たい」 といふ「気持ち」。
②「視たくない」といふ「気持ち」。
といふ、「(アンビバレントな、)二つの気持ち」があって、
② の方が、① よりも、大きい。のであれば、
② 不敢視(敢へて視ず)。といふことになる。
従って、
(15)により、
(16)
② 不敢視(敢へて視ず)。といふ「漢文(訓読)」は、たとへば、
② 視たくとも(勇気が無くて)視れない。
といふ「意味」になる。
然るに、
(17)
① 敢視(敢へて視る)。
② 不敢視(敢へて視ず)。
③ 敢不視(敢へて視ず)。
であるため、「訓読」としては、
②=③ である。
然るに、
(18)
① 敢視。
② 不敢視。
③ 敢不視。
の於いて、「漢文の語順」としては、
① の「否定」は、飽くまでも、
② であって、
③ ではない。
然るに、
(19)
(ⅰ)① の方が、② よりも、大きい。
(ⅱ)② の方が、① よりも、大きい。
に於いて、
(ⅰ)は、(ⅱ)の「否定」であり、
(ⅱ)は、(ⅰ)の「否定」である。
従って、
(15)~(19)により、
(20)
① 敢視(敢へて視る)。
② 不敢視(敢へて視ず)。
に於いて、
① に対する、
② の場合は、
② 視たいのではあるが(それだけの勇気が無くて)視れない。
といふ「意味」になる。
然るに、
(21)
蘇秦といふ者は、鬼谷先生を師とす。
初め出游し、困しみて帰る。
妻は機を下らず、嫂は為に炊がず。
是に至り、従約の長となり、六国に并せ相たり。
行きて洛陽を過ぎる。車騎輜重、王者に擬す。
昆弟妻嫂、目を側めて敢て視ず、俯伏して侍して食を取る。
(三省堂、明解古典シリーズ18、1973年)
従って、
(20)(21)により、
(22)
② 昆弟妻嫂、目を側めて敢へて視ず、俯伏して侍して食を取る。
に於ける、
② 敢へて視ず。
の場合は、
② 不敢視(敢へて視ず)。
でなければ、ならない。
然るに、
(23)
② 不二敢視一。
(三省堂、明解古典シリーズ18、1973年)
従って、
(22)(23)により、
(24)
果たして、
② 昆弟妻嫂、目を側めて敢へて視ず、俯伏して侍して食を取る。
に於ける、
② 敢へて視ず。
の場合は、
② 不敢視(敢へて視ず)。
である。
従って、
(20)~(24)により、
(25)
② 不二敢視一。
といふ「漢文」は、
② 蘇秦を視たいのではあるが(兄弟・妻・兄嫁には、それだけの勇気が無くて、まともに、蘇秦を)視ることが出来ない。
といふ「意味」になる。
(01)
演繹メタ定理は、メタ定理の中でも最も重要である。論理体系のなかには、これを推論規則("→" の導入規則)として採用したもの(自然演繹)もある(演繹定理:ウィキペディア)。
然るに、
(02)
連式表現がトートロジー的であるか否かを決めるために、それに対応する条件法を標準的な方法でテストしもよいのである。
連式に対して10個の原始的規則のみを用いて証明が見出されるならば、その連式を、簡単な言いかたをとって、導出可能(deriable)であるとよぶことにしよう。―中略、―
メタ定理1:すべての導出可能な連式は、トートロジーである。
(E.J.レモン、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、1973年、97頁)
然るに、
(03)
「E.J.レモンの、自然演繹の、10個の原始的規則(10 primitive rules)」とは、
① 仮定(A)
② 前件肯定(MPP)
③ 後件否定(MTT)
④ 二重否定(DN)
⑤ 条件法的証明(CP)
⑥ 連言導入(&I)
⑦ 連言除去(&E)
⑧ 選言導入(∨I)
⑨ 選言除去(∨E)
⑩ 背理法(RAA)
といふ「規則」をいふ。
然るに、
(04)
そこで演繹定理(Deduction theorem)は次のように表現される。
定理2.2 AとBは論理式で、Γ は論理式の有限の列であるとする。もし、
Γ,A├ B
ならば、
Γ├ A→B
である(長尾真・淵一広、論理と意味、1983年、40頁)。
然るに、
(05)
Γ,A├ B
ならば、
Γ├ A→B
といふのは、
⑤ 条件法的証明(CP)
に、他ならない。
従って、
(01)~(05)により、
(06)
メタ定理1:「(10個の原始的規則によって)導出可能」な連式は、すべてがトートロジーである。
といふことを、「保証(確約)」してゐるは、他ならぬ、
⑤ 演繹定理(条件法的証明)
である。といふ、ことになる。
従って、
(07)
① 仮定(A)
② 前件肯定(MPP)
③ 後件否定(MTT)
④ 二重否定(DN)
⑤ 条件法的証明(CP)
⑥ 連言導入(&I)
⑦ 連言除去(&E)
⑧ 選言導入(∨I)
⑨ 選言除去(∨E)
⑩ 背理法(RAA)
といふ「規則」のみを用ひて、例へば、
⑪「含意の定義」 が「証明」されたとするならば、その「証明」の「正しさ」を、「保証(確約)」してゐるのは、「⑤ 演繹定理」であり、
⑫「ド・モルガンの法則」が「証明」されたとするならば、その「証明」の「正しさ」を、「保証(確約)」してゐるのは、「⑤ 演繹定理」である。
といふ、ことになる。
然るに、
(08)
(a)P→Q├ ~P∨Q
1 (1) P→Q A
2 (2) ~(~P∨Q) A
3(3) ~P A
3(4) ~P∨Q 3∨I
23(5) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 24&I
2 (6) ~~P 35RAA
2 (7) P 6DN
12 (8) Q 17MPP
12 (9) ~P∨Q 8∨I
12 (ア) ~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 29&I
1 (イ)~~(~P∨Q) 2アRAA
1 (ウ) ~P∨Q イDN
(b)~P∨Q├ P→Q
1 (1) ~P∨ Q A
2 (2) P&~Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P& P 34&I
3 (6)~(P&~Q) 25RAA
7 (7) Q A
2 (8) ~Q A
2 7 (9) Q&~Q 78&I
7 (ア)~(P&~Q) 29RAA
1 (イ)~(P&~Q) 1367ア∨E
ウ (ウ) P A
エ(エ) ~Q A
ウエ(オ) P&~Q エオ&I
1 ウエ(カ)~(P&~Q)&
(P&~Q) イオ&I
1 ウ (キ) ~~Q 7カRAA
1 ウ (ク) Q キDN
1 (ケ) P→ Q ウクCP
(c)P&~Q├ ~(~P∨Q)
1 (1) P&~Q A
2 (2) ~P∨ Q A
1 (3) P 1&E
4 (4) ~P A
1 4 (5) P&~P 34&I
4 (6) ~(P&~Q) 15RAA
1 (7) ~Q 1&E
8(8) Q A
1 8(9) ~Q&Q 78&I
8(ア) ~(P&~Q) 19RAA
2 (イ) ~(P&~Q) 2468ア∨I
12 (ウ) (P&~Q)&
~(P&~Q) 1イ&I
1 (エ)~(~P∨ Q) 2ウRAA
(d)~(~P∨Q)├ P&~Q
1 (1)~(~P∨Q) A
2 (2) ~P A
2 (3) ~P∨Q 2∨I
12 (4)~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 13&I
1 (5) ~~P 24RAA
1 (6) P 5DN
7(7) Q A
7(8) ~P∨Q 7∨I
1 7(9)~(~P∨Q)&
(~P∨Q) 13&I
1 (ア) ~Q 79RAA
1 (イ) P&~Q 6ア&I
従って、
(02)(03)(07)(08)により、
(09)
⑪ P→ Q ┤├ ~P∨ Q
⑫ P&~Q ┤├ ~(~P∨Q)
すなはち、
⑪「含意の定義」 は、「導出可能(deriable)」であり、
⑫「ド・モルガンの法則」も、「導出可能(deriable)」であるため、
⑪「含意の定義」は、 突き詰めて言ふと、「⑤ 演繹定理」だけから「導出された連式」であって、
⑫「ド・モルガンの法則」も、突き詰めて言ふと、「⑤ 演繹定理」だけから「導出された連式」である。
然るに、
(10)
5 原始的規則あるい導出された規則を、既に証明されたどのような連式あるいは定理とでも、ともに用いて、証明せよ。
5 Using primitive or derived rules, together with any sequents or theorems already proved, prove;
(c)├((P→Q)→P)→P
(E.J.レモン、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、1973年、80頁と、原文)
cf.
ただし、「E.J.レモン、論理学初歩」には、「練習問題の解答」は、載ってゐません。
然るに、
(11)
(c)
1 (1) (P→ Q)→P ① A
1 (2) ~(P→ Q)∨P ⑪ 1含意の定義
3 (3) ~(P→ Q) ① A
4 (4) ~P∨ Q ① A
4 (5) P→ Q ⑪ 3含意の定義
34 (6) ~(P→ Q)&
(P→ Q) ⑥ 35&I
3 (7)~(~P∨ Q) ⑩ 46RAA
3 (8) P&~Q ⑫ 7ド・モルガンの法則
3 (9) P ⑥ 8&I
ア(ア) P ① A
1 (イ) P ⑨ 239アア∨E
(ウ) ((P→Q)→P)→P ⑤ 1イCP
(〃)((PならばQ)ならばP)ならばP。
(〃)
1 (1) P ① A
(2) P→P ⑤11CP(同一律)
(3) ~P∨P ⑪ 2含意の定義(排中律)
4 (4) ~P ① A
4 (5) ~P∨Q ⑧ 4∨I
4 (6) P→Q ⑪ 4含意の定義
4 (7) (P→Q)&~P ⑥ 46&I
4 (8)~(~(P→Q)∨ P) ⑫ 7ド・モルガンの法則
9 (9) (P→Q)→ P ① A
9 (ア) ~(P→Q)∨ P ⑪ 9含意の定義
49 (イ)~(~(P→Q)∨ P)&
(~(P→Q)∨ P) ⑥ 8ア&I
4 (ウ) ~((P→Q)→ P) ⑩ 9イRAA
4 (エ) ~((P→Q)→ P)∨P ⑧ ウ∨I
オ(オ) P ① A
オ(カ) ~((P→Q)→ P)∨P ⑧ オ∨I
(キ) ~((P→Q)→ P)∨P ⑨ 34エオカ∨E
(ク) ((P→Q)→ P)→P ⑪ キ含意の定義
(〃) ((PならばQ)ならばPならば)P。
従って、
(09)(10)(11)により、
(12)
⑬├((P→Q)→P)→P≡((PならばQ)ならばP)ならばP。
といふ「連式」、すなはち、「パースの法則」も、「導出可能(deriable)」であるため、
③「パースの法則」も、突き詰めて言ふと、「⑤ 演繹定理」だけから「導出された連式」である。
(13)
例えば、
(d)
1(1)P&Q A
1(2)P 1&E
(3)P&Q→Q 12CP
(〃)PであってQならば、Pである。
といふ「証明」をした際に、その「証明」自体が「妥当」であることを、「⑤ 演繹定理」で「証明」したとすれば、
├ P&Q→Q≡PであってQならば、Pである。
といふ「連式」が「恒真式(トートロジー)」であることを、最終的に「証明」したのは、「⑤ 演繹定理」である。
従って、
(11)(12)(13)により、
(14)
もう一度、確認すると、
⑬((P→Q)→P)→P≡((PならばQ)ならばP)ならばP。
といふ「パースの法則」は、「⑤ 演繹定理」だけから、導くことが、出来る。
然るに、
(15)
命題計算では、パースの法則は ((P→Q)→P)→P のことを言う。この意味するところを書き出すと、命題Pについて、命題Qが存在して、「PならばQ」からPが真であることが従うときには、Pは真でなければならないとなる。とりわけ、Qとして偽を選んだ場合には、Pから偽が従うときは常にPが真であるならば、Pは真であるとなる。
パースの法則は直観論理や中間命題論理では成立せず、演繹定理だけからでは導くことができない。
(パースの法則 - Wikipedia)
従って、
(10)~(15)により、
(16)
(a)「E.J.レモン、論理学初歩」
(b)「パースの法則 - Wikipedia」
に於いて、
(a)は、「パースの法則」は、「演繹定理だけ」から、 導くことが出来る。 と、言ってゐて、
(b)は、「パースの法則」は、「演繹定理だけ」からでは導くことが出来ない。と、言ってゐる。
(01)
1 (1)(P&Q)∨(R&Q) A
2 (2) P&Q A
2 (3) Q 2&E
4(4) R&Q A
4(5) Q 4&E
1 (6) Q 12345∨E
といふ「計算」は、「正しい」。
従って、
(02)
A=P&Q
B=Q&R
であるとして、
1 (1)(A)∨(B) A
2 (2) P&Q A
2 (3) Q 2&E
4(4) R&Q A
4(5) Q 4&E
1 (6) Q 12345∨E
といふ「計算」は、「正しい」。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① Aであるか、または、Bである。
として、
② Aだけから、Qが「演繹」でき、
③ Bだけから、Qが「演繹」できるならば、その時に、
④ 初めて、「∨E(選言除去)」といふ「規則」を満たしてゐる。
従って、
(04)
① Aであるか、Bである。
として、
② AとBの両方を用ひて、
③ Qを「演繹」したならば、
④ その場合は、「∨E(選言除去)」といふ「規則」に「違反」してゐる。
従って、
(05)
1 (1) P→Q A
2 (2) P A
12 (3) Q 12MPP
1 (4) P→Q 23CP
(5) (P→Q)→(P→Q) 14CP
(6) ~(P→Q)∨(P→Q) 5含意の定義
7 (7) ~(P→Q) A
8 (8) ~P∨Q A
8 (9) P→Q 8含意の定義
78 (ア) ~(P→Q)&(P→Q) 79&I
7 (イ)~(~P∨Q) 8アRAA
7 (ウ) P&~Q イ、ド・モルガンの法則
7 (エ) (P&~Q)∨(P→Q) ウ∨I
オ (オ) (P→Q) A
オ (カ) (P&~Q)∨(P→Q) オ∨I
(キ) (P&~Q)∨(P→Q) 67エオカ∨E
ク (ク) P&~Q A
ク (ケ) P ク&E
コ (コ) (P→Q) A
クコ (サ) Q ケコMPP
クコ (シ) ~Q ク&E
クコ (ス) ~Q&Q サシ&I
ク (セ) ~(P→Q) コスRAA
ソ(ソ) ~P∨Q A
ソ(タ) P→Q ソ含意の定義
ク ソ(チ) ~(P→Q)&(P→Q) セタ&I
ク (ツ) ~(~P∨Q) ソチRAA
ク (テ) P&~Q ツ、ド・モルガンの法則
ク (ト) P テ&E
(ナ) P キクケコト∨E
といふ「計算」の、
(キ) (P&~Q)∨(P→Q) 67エオカ∨E
ク (ク) P&~Q A
ク (ケ) P ク&E
コ (コ) (P→Q) A
クコ (サ) Q ケコMPP
といふ「部分」が、「∨E(選言除去)」といふ「規則」に「違反」してゐる。
やうに、見えないこともない。
然るに、
(06)
「含意の定義」と「ド・モルガンの法則」により、
~(P→Q)≡~(~P∨Q)≡(P&~Q)
であるため、右の「計算」は、次(06)のやうに、書くことが出来る。
(07)
1 (1) P→Q A
2 (2) P A
12 (3) Q 12MPP
1 (4) P→ Q 23CP
(5) (P→ Q)→(P→Q) 14CP
(6)~(P→ Q)∨(P→Q) 5含意の定義
(7) (P&~Q)∨(P→Q) 6の、左の選言項に対して、含意の定義&ド・モルガンの法則
8 (8) P&~Q A
8 (9) P 8&E
ア (ア) (P→Q) A
8ア (イ) Q 9アMPP
8ア (ウ) ~Q 8&E
8ア (エ) ~Q&Q イウ&I
8 (オ) ~(P→Q) アエRAA
8 (カ) P&~Q オ含意の定義&ド・モルガンの法則
8 (キ) P カ&E
(ク) P 789アキ∨E
然るに、
(08)
(7) (P&~Q)∨(P→Q) 6の、左の選言項に対して、含意の定義&ド・モルガンの法則
8 (8) P&~Q A
8 (9) P 8&E
ア (ア) (P→Q) A
8ア (イ) Q 9アMPP
であるものの、その一方で、「最初の1行目」自体が、
1 (1) P→Q A
であるため、さうなると、「∨E(選言除去)」といふ「規則」に「違反」してゐる。
とは、「単純には、言へない」のではと思ひ、そのため、「2020年1月21日火曜日」では、「右(05)」のような「計算」をした、次第である。
然るに、
(09)
パースの法則
排中律や二重否定の除去と等価な命題のひとつで、変なものとして、パースの法則があります。
任意の命題P, Qについて、
((P→Q)→P)→P
が成り立つ
『「PならばQ」ならばP』ならばP
なんか、パズルのような命題ですね。
(排中律、二重否定の除去、パースの法則 - Qiita)
然るに、
(10)
(ⅰ)
1 (1) P A
(2) P→P 11CP(同一律)
(3) ~P∨P 2含意の定義(排中律)
4 (4) ~P A
4 (5) ~P∨Q 4∨I
4 (6) P→Q 4含意の定義
4 (7) (P→Q)&~P 44&I
4 (8)~(~(P→Q)∨ P) 6ド・モルガンの法則
8 (9) (P→Q)→ P A
8 (ア) ~(P→Q)∨ P 9含意の定義
48 (イ)~(~(P→Q)∨ P)&
(~(P→Q)∨ P) 8ア&I
4 (ウ) ~((P→Q)→ P) 9イRAA
4 (エ) ~((P→Q)→ P)∨P ウ∨I
オ(オ) P A
オ(カ) ~((P→Q)→ P)∨P オ∨I
(キ) ~((P→Q)→ P)∨P 34エオカ∨E
(ク) ((P→Q)→ P)→P カ含意の定義
(〃) ((PならばQ)ならばPならば)Pである。 カ含意の定義
の場合は、
(ⅱ)
4 (4) ~P A
4 (5) ~P∨Q 4∨I
4 (6) P→Q 4含意の定義
4 (7) (P→Q)&~P 44&I
4 (8)~(~(P→Q)∨ P) 6ド・モルガンの法則
8 (9) (P→Q)→ P A
8 (ア) ~(P→Q)∨ P 9含意の定義
48 (イ)~(~(P→Q)∨ P)&
(~(P→Q)∨ P) 8ア&I
4 (ウ) ~((P→Q)→ P) 9イRAA
4 (エ) ~((P→Q)→ P)∨P ウ∨I
であって、
(ⅲ)
オ(オ) P A
オ(カ) ~((P→Q)→ P)∨P オ∨I
であるため、
(3) ~P∨P
の~P だけから、
4 (エ) ~((P→Q)→ P)∨P ウ∨I
が「演繹」出来てゐて、
(3) ~P∨P
のP だけから、
オ(カ) ~((P→Q)→ P)∨P オ∨I
が「演繹」出来てゐる。
従って、
(03)(10)により、
(11)
(キ) ~((P→Q)→ P)∨P 34エオカ∨E
は、「正しく」、それ故、
(ク) ((P→Q)→ P)→P カ含意の定義
(〃) ((PならばQ)ならばPならば)Pである。 カ含意の定義
も、「正しい」。
然るに、
(12)
系Ⅰ:任意の連式は、それがトートロジー的であるときまたそのときに限って導出可能である。
(E.J.レモン、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、1973年、114頁)
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
①((P→Q)→P)→P
①((PならばQ)ならばPならば)Pである。
といふ「パースの法則」といふ「式」は、「恒真式(トートロジー)」である。
然るに、
(14)
① A→B の場合は、
① 真→真
② 真→偽
③ 偽→真
④ 偽→偽
に於ける、
② 真→偽
だけが、「全体として、偽」になる。
従って、
(13)(14)により、
(15)
①((P→Q)→P)→P
が、「全体として、偽」であるためには、
①((P→Q)→P)→偽
でなければ、ならない。
然るに、
(16)
①((P→Q)→P)→P
①((P→Q)→P)→偽
であるならば、他の2つのPも「偽」であるため、
①((P→Q)→P)→P
①((偽→Q)→偽)→偽
である。
然るに、
(17)
①((偽→Q)→偽)→偽
であって、
① Qが「真」であるならば、
①((偽→真)→偽)→偽
である。
(18)
①((偽→Q)→偽)→偽
であって、
② Qが「偽」であるならば、
②((偽→偽)→偽)→偽
従って、
(14)~(18)により、
(19)
①((P→Q)→P)→P
が、「全体として、偽」であるためには、
①((偽→真)→偽)→偽
②((偽→偽)→偽)→偽
の内の、「どちら」かである。
然るに、
(14)(19)により、
(20)
①((偽→真)→偽)→偽
②((偽→偽)→偽)→偽
であれば、
①((真)→偽)→偽
②((真)→偽)→偽
であって、
①((真)→偽)→偽
②((真)→偽)→偽
であれば、
①(偽)→偽
②(偽)→偽
である。
然るに、
(14)(20)により、
(21)
①(偽)→偽
②(偽)→偽
は、両方とも、「真」である。
従って、
(14)~(21)により、
(22)
① 真→真
② 真→偽
③ 偽→真
④ 偽→偽
に於ける、
② 真→偽
だけが、「全体として、偽」になるが故に、
①((P→Q)→P)→P
の場合は、「全体として、偽」になることが出来ず、それ故、「恒に、真(トートロジー)」である。
然るに、
(23)
1 代入の規則
一つの恒真式のなかの命題変項を他の命題変項、または論理式でおきかえることによって得られた式は同じく恒真式である。
(沢田允、現代論理学入門、1962年、173頁)
然るに、
(24)
1 (1) P A
(2) P→P 11CP(同一律)
(3) ~P∨P 2含意の定義(排中律)
4 (4) ~P A
4 (5) ~P∨~Q 4∨I
4 (6) P→~Q 4含意の定義
4 (7) (P→~Q)&~P 44&I
4 (8)~(~(P→~Q)∨ P) 6ド・モルガンの法則
8 (9) (P→~Q)→ P A
8 (ア) ~(P→~Q)∨ P 9含意の定義
48 (イ)~(~(P→~Q)∨ P)&
(~(P→~Q)∨ P) 8ア&I
4 (ウ) ~((P→~Q)→ P) 9イRAA
4 (エ) ~((P→~Q)→ P)∨P ウ∨I
オ(オ) P A
オ(カ) ~((P→~Q)→ P)∨P オ∨I
(キ) ~((P→~Q)→ P)∨P 34エオカ∨E
(ク) ((P→~Q)→ P)→P カ含意の定義
(〃) ((Pならば~Q)ならばPならば)Pである。 カ含意の定義
従って、
(23)(24)により、
(25)
「恒真式(トートロジー)」の「定義」からすれば、「当然」であるものの、
①((P→ Q)→P)→P
に於いて、
Q=~Q
といふ「代入(Substituution)」を行って得られる。
②((P→~Q)→P)→P
といふ「式」も、「恒真式(トートロジー)」である。
従って、
(25)により、
(26)
①((P→ Q)→P)→P
②((P→~Q)→P)→P
は、両方とも、「恒真式(トートロジー)」であるため、「日本語」で言へば、
①((PであるならばQである)ならばPであるならば)Pである。
②((PであるならばQでない)ならばPであるならば)Pである。
は、両方とも、「恒真式(トートロジー)」である。
然るに、
(27)
①((PであるならばQである)ならばPであるならば)Pである。
②((PであるならばQでない)ならばPであるならば)Pである。
といふことは、「一言」で言へば、
③((Pであるならば、QであらうとQでなからうと)Pであるならば)Pである。
といふことである。
然るに、
(10)(24)により、
(28)
「突き詰めて書く」と、「18行の計算」は、
1 (1) P A
(ク) ((P→ Q)→P)→P カ含意の定義
(〃) ((P→~Q)→P)→P カ含意の定義
といふ「2行の計算」に、「まとめられる」。
従って、
(09)(26)(27)(28)により、
(29)
パースの法則
排中律や二重否定の除去と等価な命題のひとつで、変なものとして、パースの法則があります。
任意の命題P, Qについて、
((P→Q)→P)→P
が成り立つ
『「PならばQ」ならばP』ならばP
なんか、パズルのような命題ですね。
とは言ふものの、
①((P→ Q)→P)→P
①((P→~Q)→P)→P
①((Pであるならば、QであらうとQでなからうと)Pであるならば)Pである。
といふ「パースの法則」は、「変なもの」であるどころか、「少しも、変ではなく、尚且つ、明らかに、真である」。
然るに、
(30)
(ⅰ)P→Q├ ~(P&~Q)
1 (1) P→ Q A
2(2) P&~Q A
2(3) P 2&E
2(4) ~Q 2&E
12(5) Q 13MPP
12(6) ~Q&Q 45&I
1 (7)~(P&~Q) 26RAA
(ⅱ)~(P&~Q)├ P→Q
1 (1)~(P&~Q) A
2 (2) P A
3(3) ~Q A
23(4) P&~Q 23&I
123(5)~(P&~Q)&
(P&~Q) 14&I
12 (6) ~~Q 35RAA
12 (7) Q 6DN
1 (8) P→ Q 27CP
従って、
(30)により、
(31)
① P→ Q
② ~(P&~Q)
に於いて、
①=② である。
従って、
(23)(31)により、
(32)
① ( (( (P →Q)) →P)→ P)
② ( ((~(P&~Q)) →P)→ P)
③ (~((~(P&~Q))&~P)→ P)
④ ~(~((~(P&~Q))&~P)&~P)
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(33)
①((PならばQ)ならばPならば)Pである。
②((((PであってQでない)でなく)てPでない)でなくてPでない)ではない。
に於いて、
①=② であるが、
②((((PであってQでない)でなく)てPでない)でなくてPでない)ではない。
といふのであれば、
①((PならばQ)ならばPならば)Pである。
よりも、「もっと、変」であって、
② は、「分けが、分からない」。
然るに、
(29)(31)(33)により、
(34)
①((PならばQ)ならばPならば)Pである。
②((((PであってQでない)でなく)てPでない)でなくてPでない)ではない。
に於いて、
① は「パースの法則」であるならば、
② も「パースの法則」そのものである。
従って、
(09)(34)により、
(35)
パースの法則
排中律や二重否定の除去と等価である命題のひとつで、変なものとして、パースの法則があります。
任意の命題P, Qについて、
~(~((~(P&~Q))&~P)&~P)
が成り立つ
((((PであってQでない)でなく)てPでない)でなくてPでない)ではない。
なんか、パズルのような命題ですね。
といふ「言ひ方」も、可能である。
(01)
「乗法(連言)の交換法則」により、
①(Pであって、Qでない。)
②(Qでなくて、Pである。)
に於いて、
①=② である。
従って、
(01)により、
(02)
①(Pであって、Qでない。)といふことはない。
②(Qでなくて、Pである。)といふことはない。
に於いても、
①=② である。
然るに、
(03)
①(Pであって、Qでない。)といふことはない。
②(Qでなくて、Pである。)といふことはない。
といふことは、
① PであるならばQである。
② QでないならばPでない。
といふことに、他ならない。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
①(Pであって、Qでない。)といふことはない。
②(Qでなくて、Pである。)といふことはない。
に於いて、
①=② である。が故に、
① PであるならばQである。
② QでないならばPでない。
に於いても、
①=② であるものの、この「論証」を、「素朴・対偶論」とする。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
「素朴・対偶論」の「妥当性」は、
「乗法(連言)の交換法則」の「妥当性」に由来する。
然るに、
(06)
「乗法(連言)の交換法則」ではなく、
「加法(選言)の交換法則」により、
①(Pであるか、Qである。)
②(Qであるか、Pである。)
に於いて、
①=② である。
然るに、
(07)
① Pであるか、Qである。然るに、Pでない。故に、Qである。
② Qであるか、Pである。然るに、Qでない。故に、Pである。
といふ「選言三段論法(消去法)」は、「妥当」である。
然るに、
(08)
① Pでない。故に、Qである。
② Qでない。故に、Pである。
といふことは、
③ Pでないならば、Qである。
④ Qでないならば、Pである。
といふことを、「前提」とする。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
① Pであるか、Qである。
② Qであるか、Pである。
といふ「選言命題」は、「順番」に、
③ Pでないならば、Qである。
④ Qでないならば、Pである。
といふ「仮言命題」に、「等しい」。
従って、
(09)により、
(10)
「記号」で書くと、
① P∨Q
② Q∨P
といふ「選言命題」は、「順番」に、
③ ~P→Q
④ ~Q→P
といふ「仮言命題」に、「等しい」。
然るに、
(11)
(ⅰ)
1 (1) P∨ Q A
2 (2) ~P&~Q A
3 (3) P A
2 (4) ~P 2&E
23 (5) P&~P 34&I
3 (6)~(~P&~Q) 25RAA
7 (7) Q A
2 (8) ~Q 2&E
2 7 (9) Q&~Q 78&I
7 (ア)~(~P&~Q) 29RAA
1 (イ)~(~P&~Q) 1367ア∨E
ウ (ウ) ~P A
エ(エ) ~Q A
ウエ(オ) ~P&~Q ウエ&I
1 ウエ(カ)~(~P&~Q)&
(~P&~Q) 6オ&I
1 ウ (キ) ~~Q ウRAA
1 ウ (ケ) Q キDN
1 (コ) ~P→ Q ウケCP
(ⅲ)
1 (1) ~P→Q A
2 (2) ~(P∨Q) A
3 (3) P A
3 (4) P∨Q 3∨I
23 (5) ~(P∨Q)&
(P∨Q) 14&I
2 (5) ~P 3RAA
12 (6) Q 15MPP
12 (7) P∨Q 6∨I
12 (8) ~(P∨Q)&
(P∨Q) 27&I
1 (9)~~(P∨Q) 28&RAA
1 (ア) P∨Q 9DN
従って、
(11)により、
(12)
「命題計算(Propositional calculus)」の結果も、
① P∨Q
③ ~P→Q
に於いて、
①=③ である。
従って、
(12)により、
(13)
① P∨Q
③ ~P→Q
に於いて、
P=Q
Q=P
といふ「代入(Substitution)」を行ふと、
② Q∨P
④ ~Q→P
に於いて、
②=④ である。
cf.
(S1)証明された定理の任意の代入例に対して、証明が見出され得る。
(E.J.レモン、論理学初歩、竹尾治一郎・浅野楢英 訳、1973年、69頁)
然るに、
(14)
「加法(選言)の交換法則」により、
① P∨Q
② Q∨P
に於いて、
①=② である。
cf.
(ⅰ)
1 (1)P∨Q A
2 (2)P A
2 (3)Q∨P 2∨I
3(4) Q A
3(5)Q∨P 4∨I
1 (6)Q∨P 12345∨E
(ⅱ)
1 (1)Q∨P A
2 (2)Q A
2 (3)P∨Q 2∨I
3(4) P A
3(5)P∨Q 4∨I
1 (6)P∨Q 12345∨E
従って、
(13)(14)により、
(15)
① P∨Q
② Q∨P
③ ~P→Q
④ ~Q→P
に於いて、
①=② であって、
①=③ であって、
②=④ である。
従って、
(15)により、
(16)
③ ~P→Q
④ ~Q→P
に於いて、
③=④ である。
従って、
(16)により、
(17)
③ ~P→Q
④ ~Q→P
に於いて、
P=~P
といふ「代入(Substitution)」を行ふと、
① ~~P→ Q
② ~Q→~P
に於いて、
①=② である。
従って、
(17)により、
(18)
「二重否定律(DN)」により、
① P→ Q
② ~Q→~P
に於いて、
①=② である。
従って、
(18)により、
(19)
① P→ Q
② ~Q→~P
に於いて、
P=~P
Q=~Q
といふ「代入(Substitution)」を行ふと、
③ ~P→ ~Q
④ ~~Q→~~P
に於いて、
③=④ である。
従って、
(19)により、
(20)
「二重否定律(DN)」により、
③ ~P→~Q
④ Q→ P
に於いて、
③=④ である。
従って、
(18)(19)(20)により、
(21)
① P→ Q
② ~Q→~P
③ ~P→~Q
④ Q→ P
に於いて、
①=② であって、
③=④ である。
然るに、
(22)
P=~P
Q=~Q
といふ「代入(Substitution)」を行ふ。といふことは、
言はば、『裁判の途中で、証人が、自分の証言を、自分で否定してゐる場合』に、「譬へ」ることが出来る。
従って、
(19)(21)(22)により、
(23)
① P→ Q
② ~Q→~P
③ ~P→~Q
④ Q→ P
に於いて、
①=② であって、
③=④ であるが、
①=③ ではないし、
②=④ でもない。
従って、
(24)
「日本語」で言ふならば、
① Pであるならば、Qである。
② Qでないならば、Pでない。
③ Pでないならば、Qでない。
④ Qであるならば、Pである。
に於いて、
①=② であって、
③=④ であるが、
①=③ ではないし、
②=④ でもない。
従って、
(25)
「論理学の用語」で言ふと、
①「順」
②「対偶」
③「裏」
④「逆」
に於いて、
①=② であって、
③=④ であるが、
①=③ ではないし、
②=④ でもない。
従って、
(01)~(25)により、
(26)
論理学で「ある命題が真であるとすると、対偶は真であるが、逆と裏は必ずしも真ではない」とされています(弁護士と理数系の知識 - 西野法律事務所)。
といふことに、付け加へて、言ふならば、「逆と裏」の関係も、「対偶」である。といふ、ことになる。
(01)
①(PとQの、少なくとも、一方は「本当」である。)
②(Pは「ウソ」であり、その上、Qも「ウソ」である。)
に於いて、
①と② は、「矛盾」するため、どちらか一方は、「ウソ」である。
従って、
(01)により、
(02)
①(PとQの、少なくとも、一方は「本当」である。)といふことはない。
②(Pは「ウソ」であり、その上、Qも「ウソ」である。)
とするならば、
①=② である。
(03)
③(Pは「本当」であり、その上、Qも「本当」である。)
④(PとQの、少なくとも、一方は「ウソ」である。)
に於いて、
③と④ は、「矛盾」するため、どちらか一方は、「ウソ」である。
従って、
(03)により、
(04)
③(Pは「本当」であり、その上、Qも「本当」である。)といふことはない。
④(PとQの、少なくとも、一方は「ウソ」である。)
とするならば、
③=④ である。
従って、
(02)(04)により、
(05)
①(PとQの、少なくとも、一方は「本当」である。)といふことはない。
②(Pは「ウソ」であり、その上、Qも「ウソ」である。)
③(Pは「本当」であり、その上、Qも「本当」である。)といふことはない。
④(PとQの、少なくとも、一方は「ウソ」である。)
に於いて、
①=② であり、
③=④ である。
従って、
(05)により、
(06)
「命題論理」の「記号」で書くならば、
① ~(P∨ Q)
② ~P&~Q
③ ~(P& Q)
④ ~P∨~Q
に於いて、
①=② であり、
③=④ であるものの、この「等式」を、「ド・モルガンの法則」といふ。
従って、
(05)(06)により、
(07)
①(PとQの、少なくとも、一方は「本当」である。)といふことはない。
②(Pは「ウソ」であり、その上、Qも「ウソ」である。)
③(Pは「本当」であり、その上、Qも「本当」である。)といふことはない。
④(PとQの、少なくとも、一方は「ウソ」である。)
に於いて、
①=② であり、
③=④ である。
といふことが、「理解」出来るのであれば、その人は既に、「日本語」で、「ド・モルガンの法則」を、理解してゐる。
といふことになり、そのため、
のやうな、「ベン図」を用ひた「説明」を受ける必要はない。
然るに、
(08)
因みに、
① ~(P∨ Q)
② ~P&~Q
③ ~(P& Q)
④ ~P∨~Q
に於いて、
① ⇔ ② であり、
③ ⇔ ④ であることを、「命題計算」で、「証明」するならば、次(10・11)のやうになる。
ものの、「命題計算」は、「一種の、言葉」である。
従って、
(09)
次(10・11)の「命題計算」は、
① ~(P∨ Q)
② ~P&~Q
③ ~(P& Q)
④ ~P∨~Q
といふ「言葉の意味」を、「命題計算」といふ「言葉」で「説明」してゐる。
といふ風に、見れないことも、ない。
(10)
(ⅰ)
1 (1)~(P∨Q) A
2 (2) P A
2 (3) P∨Q 2∨I
12 (4)~(P∨Q)&
(P∨Q) 13&I
1 (5) ~P 24RAA
6(6) Q A
6(7) P∨Q 6∨I
1 6(8)~(P∨Q)&
(P∨Q) 16&I
1 (9) ~Q 68RAA
1 (ア)~P&~Q 59&I
(ⅱ)
1 (1) ~P&~Q A
2 (2) P∨ Q A
1 (3) ~P 1&E
4 (4) P A
1 4 (5) ~P& P 34&I
4 (6)~(~P&~Q) 15RAA
5(7) Q A
1 (8) ~Q 1&E
1 5(9) Q&~Q 78&I
5(ア)~(~P&~Q) 19RAA
2 (イ)~(~P&~Q) 2467ア∨E
12 (ウ) (~P&~Q)&
~(~P&~Q) 1イ&I
1 (エ) ~(P∨ Q) 2ウRAA
従って、
① ~(P∨ Q)
② ~P&~Q
に於いて、
① ならば、② であり、
② ならば、① である。
(11)
(ⅲ)
1 (1) ~( P& Q) A
2 (2) ~(~P∨~Q) A
3 (3) ~P A
3 (4) ~P∨~Q 3∨I
23 (5) ~(~P∨~Q)&
23 (6) (~P∨~Q) 24&I
2 (7) ~~P 3RAA
2 (8) P 7DN
9(9) ~Q A
9(ア) ~P∨~Q 9∨I
2 9(イ) ~(~P∨~Q)&
(~P∨~Q) 2ア&I
2 (ウ) ~~Q 9イRAA
2 (エ) Q ウDN
2 (オ) P& Q 8エ&I
12 (カ) ~( P& Q)&
( P& Q)
1 (キ)~~(~P∨~Q) 2カRAA
1 (ク) ~P∨~Q キDN
(ⅳ)
1 (1) ~P∨~Q A
2 (2) P& Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6)~(P& Q) 25RAA
7(7) ~Q A
2 (8) Q 2&E
2 7(9) ~Q&Q 78&I
7(ア)~(P& Q) 29RAA
1 (イ)~(P& Q) 1367ア∨E
従って、
③ ~(P& Q)
④ ~P∨~Q
に於いて、
③ ならば、④ であり、
④ ならば、③ である。
(01)
①『命題Pと命題Qの、少なくとも、一方は、ウソ(偽)である。』
②『命題Pと命題Qの、その両方が、同時に、本当(真)である。』といふことはない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(02)
① ~P∨~Q
② ~(P& Q)
といふ「式」は、
①『命題Pと命題Qの、少なくとも、一方は、ウソ(偽)である。』
②『命題Pと命題Qの、その両方が、同時に、本当(真)である。』といふことはない。
といふ「意味」である。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① ~P∨~Q
② ~(P& Q)
に於いて、
①=② である。
然るに、
(04)
③ ~(~P∨~Q)
④ ~~(P& Q)
といふ「式」は、
① ~P∨~Q
② ~(P& Q)
といふ「式」の「否定」である。
従って、
(05)
③ ~(~P∨~Q)
④ ~~(P& Q)
に於いても、
③=④ である。
然るに、
(06)
③ ~(~P∨~Q)
④ ~~(P& Q)
に於いて、
P=~P
Q=~Q
といふ「代入(Substitution)」を行ふと、
③ ~(~~P∨~~Q)
④ ~~(~P& ~Q)
然るに、
(07)
「二重否定律(DN)」により、
③ ~(~~P∨~~Q)
④ ~~(~P& ~Q)
といふ「式」は、
③ ~(P∨ Q)
④ ~P&~Q
といふ「式」に「等しい」。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
③ ~(P∨ Q)
④ ~P&~Q
に於いて、
③=④ である。
従って、
(03)(08)により、
(09)
① ~P∨~Q
② ~(P& Q)
③ ~(P∨ Q)
④ ~P&~Q
に於いて、
①=② であって、
③=④ である。
従って、
(09)により、
(10)
「番号」と付け直すと、
① ~(P∨ Q)
② ~P&~Q
③ ~(P& Q)
④ ~P∨~Q
に於いて、
①=② であって、
③=④ であるものの、これらの「等式」を、「ド・モルガンの法則」といふ。
然るに、
(11)
①『命題Pと命題Qと命題Rの内の、少なくとも、1つは、ウソ(偽)である。』
②『命題Pと命題Qと命題Rの、その3つが、同時に、本当(真)である。』といふことはない。
に於いて、
①=② である。
従って、
(01)~(11)により、
(12)
① ~(P∨ Q∨ R)
② ~P&~Q&~R
③ ~P∨~Q∨~R)
④ ~(P& Q& R)
に於いて、
①=② であって、
③=④ であるものの、これらの「等式」を、「ド・モルガンの法則」といふ。
然るに、
(13)
① ~(P∨ Q)
② ~P&~Q
③ ~(P& Q)
④ ~P∨~Q
に対する、「命題計算(Propositional calculation)」は、次(14)の通りである。
(14)
(ⅰ)
1 (1)~(P∨Q) A
2 (2) P A
2 (3) P∨Q 2∨I
12 (4)~(P∨Q)&
(P∨Q) 13&I
1 (5) ~P 24RAA
6(6) Q A
6(7) P∨Q 6∨I
1 6(8)~(P∨Q)&
(P∨Q) 16&I
1 (9) ~Q 68RAA
1 (ア)~P&~Q 59&I
(ⅱ)
1 (1) ~P&~Q A
2 (2) P∨ Q A
1 (3) ~P 1&E
4 (4) P A
1 4 (5) ~P& P 34&I
4 (6)~(~P&~Q) 15RAA
5(7) Q A
1 (8) ~Q 1&E
1 5(9) Q&~Q 78&I
5(ア)~(~P&~Q) 19RAA
2 (イ)~(~P&~Q) 2467ア∨E
12 (ウ) (~P&~Q)&
~(~P&~Q) 1イ&I
1 (エ) ~(P∨ Q) 2ウRAA
(ⅲ)
1 (1) ~( P& Q) A
2 (2) ~(~P∨~Q) A
3 (3) ~P A
3 (4) ~P∨~Q 3∨I
23 (5) ~(~P∨~Q)&
23 (6) (~P∨~Q) 24&I
2 (7) ~~P 3RAA
2 (8) P 7DN
9(9) ~Q A
9(ア) ~P∨~Q 9∨I
2 9(イ) ~(~P∨~Q)&
(~P∨~Q) 2ア&I
2 (ウ) ~~Q 9イRAA
2 (エ) Q ウDN
2 (オ) P& Q 8エ&I
12 (カ) ~( P& Q)&
( P& Q)
1 (キ)~~(~P∨~Q) 2カRAA
1 (ク) ~P∨~Q
(ⅳ)
1 (1) ~P∨~Q A
2 (2) P& Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6)~(P& Q) 25RAA
7(7) ~Q A
2 (8) Q 2&E
2 7(9) ~Q&Q 78&I
7(ア)~(P& Q) 29RAA
1 (イ)~(P& Q) 1367ア∨E
然るに、
(15)
(ⅳ)
1 (1) ~P∨~Q A
2 (2) P& Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6)~(P& Q) 25RAA
7(7) ~Q A
2 (8) Q 2&E
2 7(9) ~Q&Q 78&I
7(ア)~(P& Q) 29RAA
といふ「計算」に於ける、
1 (1) ~P∨~Q A
2 (2) P& Q A
といふ「行」は、
①『命題Pと命題Qの、少なくとも、一方は、ウソ(偽)である。』と「仮定」し、
②『命題Pと命題Qの、その両方が、同時に、本当(真)である。』と「仮定」する。
といふ「意味」である。
従って、
(15)により、
(16)
(ⅳ)
1 (1) ~P∨~Q A
2 (2) P& Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6)~(P& Q) 25RAA
7(7) ~Q A
2 (8) Q 2&E
2 7(9) ~Q&Q 78&I
7(ア)~(P& Q) 29RAA
1 (イ)~(P& Q) 1367ア∨E
といふ「計算」は、
①『命題Pと命題Qの、少なくとも、一方は、ウソ(偽)である。』と「仮定」し、
②『命題Pと命題Qの、その両方が、同時に、本当(真)である。』と「仮定」すると、
⑤「矛盾」が生じ、
⑨「矛盾」が生じるため、
⑩『命題Pと命題Qの、その両方が、同時に、本当(真)である。』と「仮定」は、「否定」される。
といふことを、示してゐる。
然るに、
(16)により、
(17)
(ⅳ)
1 (1) ~P∨~Q A
2 (2) P& Q A
3 (3) ~P A
2 (4) P 2&E
23 (5) ~P&P 34&I
3 (6)~(P& Q) 25RAA
7(7) ~Q A
2 (8) Q 2&E
2 7(9) ~Q&Q 78&I
7(ア)~(P& Q) 29RAA
1 (イ)~(P& Q) 1367ア∨E
といふ「計算」は、
(ⅳ)
12 (ウ) ~(P& Q)&
(P& Q) 2イ&I
2 (エ)~(~P∨~Q) 1ウRAA
といふ風に、「続ける」ことも出来る。
然るに、
(18)
(ⅰ)
1 (1)~(P∨Q) A
2 (2) P A
2 (3) P∨Q 2∨I
12 (4)~(P∨Q)&
(P∨Q) 13&I
1 (5) ~P 24RAA
6(6) Q A
6(7) P∨Q 6∨I
1 6(8)~(P∨Q)&
(P∨Q) 16&I
1 (9) ~Q 68RAA
1 (ア)~P&~Q 59&I
に於いて、
P=~P
Q=~Q
といふ「代入(Substitution)」を行ふことが、出来る。
従って、
(17)(18)により、
(19)
⑤ ~(~P∨~Q)
⑥ ~~P&~~P≡P&Q
に於いても、
⑤=⑥ である。
(01)
Aさん曰く「ある人はすべての人を愛してゐる。」
Bさん曰く「すべての人はある人を愛してゐる。」
Cさん曰く「AさんとBさんは矛盾してゐる。」
(02)
この場合、
Cさん曰く「AさんとBさんは矛盾してゐる。」
といふ「発言」は「正しい」のだろうか。
(03)
{変域(ドメイン)}を{人間}とすると、
① ある人はすべての人を愛してゐる。
② すべての人はある人を愛してゐる。
といふ「命題」は、
① ∃y∀x(愛yx)
② ∀y∃x(愛yx)
といふ風に、書くことが出来る。
然るに、
(04)
(ⅰ)
1 (1)∃y∀x(愛yx) A
2(2) ∀x(愛bx) A
2(3) 愛ba 3UE
2(4) ∃x(愛bx) 3EI
2(5)∀y∃x(愛yx) 4UI
1 (6)∀y∃x(愛yx) 125EE
(ⅱ)
1 (1)∀y∃x(愛yx) A
1 (2) ∃x(愛bx) 1UE
3(3) 愛ba A
3(4) ∀x(愛bx) 3UI
3(5)∃y∀x(愛yx) 4EI
1 (6)∃y∀x(愛yx) 135EE
然るに、
(05)
(04)により、
(ⅰ)は「UI(普遍量記号導入の規則)」に「違反」してゐて、
(ⅱ)も「UI(普遍量記号導入の規則)」に「違反」してゐる。
従って、
(03)(04)により、
(05)
「述語計算(Predicate calculation)」の「結果」からすると、
① ある人はすべての人を愛してゐる。
② すべての人はある人を愛してゐる。
に於いて、
① が「真(本当)」であるからと言って、② が「真(本当)」であるとは限らないし、
② が「真(本当)」であるからと言って、① が「真(本当)」であるとは限らない。
といふ、ことになる。
然るに、
(06)
① ∃y∀x(愛yx)の「否定」。
② ∀y∃x(愛yx)の「否定」。
は、「量化子の関係」により、それぞれ、
③ ~∃y∀x(愛yx)≡∀y~∀x(愛yx)≡∀y∃x~(愛yx)≡すべての人はある人を愛してゐない(誰からも愛されない人がゐる)。
④ ~∀y∃x(愛yx)≡∃y~∃x(愛yx)≡∃y∀x~(愛yx)≡ある人はすべての人を愛してゐない(誰をも、愛さない人がゐる)。
である。
従って、
(05)(06)により、
(07)
①「ある人がすべての人を愛してゐる」からと言って「すべての人はある人を愛してゐる」とは限らない。
②「すべての人がある人を愛してゐる」からと言って「ある人がすべての人を愛してゐる」とは限らない。
といふことは、「矛盾」ではなく、
①「ある人がすべての人を愛してゐる」ならば「すべての人はある人を愛してゐない」。
②「すべての人がある人を愛してゐる」ならば「ある人はすべての人を愛してゐない」。
といふことが、「矛盾」である。
然るに、
(08)
①「すべての人はある人を愛してゐる」とは限らないのであれば、「すべての人はある人を愛してゐない」のかも知れないし、
②「ある人がすべての人を愛してゐる」とは限らないのであれば、「ある人はすべての人を愛してゐない」のかも知れない。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
この場合、
Cさん曰く「AさんとBさんは矛盾してゐる。」
といふ「発言」は「正しく」はない。
―「今回」は、「述語論理」ではなく、「漢文」です。―
(01)
① AはBよりも大きい。
の「否定」は、
② AはBに等しいか、AはBよりも小さい。
である。
然るに、
(02)
「数学」ではないため、以下では、
① AはBよりも大きい。
の「否定」は、
② AはBよりも小さい。
であると、する。
(03)
① AはBよりも大きい。
といふ「言ひ方」を、普通に、
① A>B
といふ風に、書くことにする。
(04)
② AはBよりも小さい。
といふ「言ひ方」を、普通に、
② A<B
といふ風に、書くことにする。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
①(A>B)
②(A<B)
に於いて、
① は、② の「否定」であり、
② は、① の「否定」である。
然るに、
(06)
①(A>B)
②(A<B)
に於いて、
① の「否定」を、
① 不(A>B)
とし、
② の「否定」を、
② 不(A<B)
とする。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 不(A>B)=(A<B)
② 不(A<B)=(A>B)
然るに、
(08)
A=「視たい。 といふ気持ち」。
B=「視たくない。といふ気持ち」。
(09)
〔A〕=視る =〔不B〕
〔B〕=視ない=〔不A〕
従って、
(07)(08)(09)により、
(10)
①{不(A>B)=(A<B)}⇒〔B=不A〕。
②{不(B>A)=(B<A)}⇒〔A=不B〕。
といふ「二つの式」は、
①「視たい。といふ気持ち」が「視たくない。といふ気持ち」よりも「大きくない」ので「敢へて、視ない」。
②「視たくない。といふ気持ち」が「視たい。といふ気持ち」よりも「大きくない」ので「敢へて、視る」。
といふ「状態」を、表しゐて、これらを「漢文」で書くならば、
① 敢不視=敢へて視ず。
② 敢視 =敢へて視る。
といふ、ことになる。
従って、
(10)により、
(11)
いづれにせよ、
① 敢不視=敢へて視ず。
② 敢視 =敢へて視る。
といふ「漢文」は、両方とも、「葛藤を表す」ことになる。
従って、
(11)により、
(12)
① 敢不視。
② 敢視。
といふ「漢文」は、
① 視たいけれど、勇気がないので、視れない。
② 視たくないけれど、勇気を出して、視る。
といふ「意味」になる。
従って、
(12)により、
(13)
① 敢不視。
② 敢視。
の「否定」である、
③ 不〔敢不(視)〕。
④ 不(敢視)。
といふ「漢文」は、
③ 視たいけれど、勇気がないので、視れない。といふことはしない。
④ 一方では、視たいし、一方では、視たくないけれど、勇気を出して、視る。といふことが出来ない。
といふ「意味」になる。
然るに、
(14)
(a)
蘇秦者、師鬼谷先生。
初出游、困而帰。
妻不下機、嫂不為炊。
至是為従約長、并相六国。
行過洛陽。
車騎輜重、擬於王者。
昆弟妻嫂、側目不敢視。
(b)
蘇秦者、師鬼谷先生。
初出游、困而帰。
妻不〔下(機)〕、嫂不(為炊)。
至(是)為(従約長)、并‐相(六国)。
行過(洛陽)。
車騎輜重、擬(於王)者。
昆弟妻嫂、側(目)不(敢視)。
(c)
蘇秦なる者は、鬼谷先生を師とす。
初め出游し、困しみて帰る。
妻は機を下らず、嫂は為に炊がず。
是に至りて従約の長と為り、六国に并せ相たり。
行きて洛陽を過ぐ。
車騎輜重、王者に擬す。
昆弟妻嫂、目を側めて敢へて視ず。
従って、
(13)(14)により、
(15)
④ 昆弟妻嫂、目を側めて敢へて視ず。
の場合は、
④ 本当は、(蘇秦の姿を、まともに)視たいけれど、勇気を出して、視る。といふことが出来ない。
といふ、「意味」になる。
然るに、
(13)により、
(16)
③ 不敢不告也=
③ 不〔敢不(告)〕也⇒
③ 〔敢へ(告げ)不んば〕あら不る也。
といふ「漢文」は、
③ 告げたいけれど、勇気がないので、告げなない。といふことはしないのだ。
といふ「意味」になる。
従って、
(17)
③ 以吾從大夫之後。不敢不告也。
③ 吾れは大夫の後に従える以て、敢へてて告げずんばあらざるなり(論語、憲問第十四 22)。
に於ける、
③ 不敢不告也。
の場合も、
③ 必ず、告げるのだ。⇔
③ 告げないことは、決してしないのだ。⇔
③ 告げたいけれど、勇気がないので、告げない。といふことはしないのだ。
といふ、「意味」になる。
(01)
① 彼立於門前三十分=
① 彼立〔於(門前)〕三十分。
に於いて、
① 立〔 〕⇒〔 〕立
① 於( )⇒( )於
といふ「移動」を行ふと、
① 彼立〔於(門前)〕三十分⇒
② 彼〔(門前)於〕立三十分=
② 彼〔(門前)に〕立つこと三十分。
といふ「漢文・訓読」が、成立する。
然るに、
(02)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 彼立〔於(門前)〕三十分。⇔
② 彼〔(門前)に〕立つこと三十分。
といふ「漢文・訓読」に於いて、
① の「語順」と、
② の「語順」は、「同じ」ではないが、
①〔 ( ) 〕
②〔 ( ) 〕
といふ「補足構造」自体に、「変り」はない。
然るに、
(04)
③ He had been standing in front of the door for 30 minutes=
③ He had《been〈standing{in[front〔of(the door)〕]for(30 minutes)}〉》.
に於いて、
③ had《 》⇒《 》had
③ been〈 〉⇒〈 〉been
③ standing{ }⇒{ }standing
③ in[ ]⇒[ ]in
③ front〔 〕⇒〔 〕front
③ of( )⇒( )of
③ for( )⇒( )for
といふ「移動」を行ふと、
③ He had《been〈standing{in[front〔of(the door)〕]for(30 minutes)}〉》⇒
④ He 《〈{[〔(the door)of〕front]in(30 minutes)for}standing〉been》had=
④ 彼は 《〈{[〔(ドア)の〕前]に(30分)間}立って〉ゐ》た。
といふ「英文・訓読」が、成立する。
従って、
(03)(04)により、
(05)
③ He had《been〈standing{in[front〔of(the door)〕]for(30 minutes)}〉》⇔
④ 彼は 《〈{[〔(ドア)の〕前]に(30分)間}立って〉ゐ》た。
といふ「英文・訓読」に於いて、
③ の「語順」と、
④ の「語順」は、「同じ」ではないが、
③《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
④《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
といふ「補足構造」自体に、「変り」はない。
然るに、
(06)
① 彼立〔於(門前)〕三十分。⇔
② 彼〔(門前)に〕立つこと三十分。
に於ける、
①〔 ( ) 〕
②〔 ( ) 〕
といふ「補足構造」と、
③ He had《been〈standing{in[front〔of(the door)〕]for(30 minutes)}〉》⇔
④ 彼は 《〈{[〔(ドア)の〕前]に(30分)間}立って〉ゐ》た。
に於ける、
③《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
④《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
といふ「補足構造」は、言ふ迄もなく、「同じ」ではない。
従って、
(03)~(06)により、
(07)
① 彼立〔於(門前)〕三十分。⇔
② 彼〔(門前)に〕立つこと三十分。
といふ「漢文・訓読」の場合は、
① の「語順」と、
② の「語順」は、「同じ」ではないが、
①〔 ( ) 〕
②〔 ( ) 〕
といふ「補足構造」は、「同じ」であり、
① 彼立〔於(門前)〕三十分 ⇔
④ 彼は 《〈{[〔(ドア)の〕前]に(30分)間}立って〉ゐ》た。
といふ「漢文・和訳」の場合は、
① の「語順」と、
④ の「語順」が、「同じ」ではないだけではなく、
①〔 ( ) 〕
④《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
といふ「補足構造」も、「同じ」ではない。
従って、
(08)
「漢文・訓読」とは、「原文(漢文)のシンタックス」を保存した形で行はれる、「逐語訳」であり、
「漢文・和訳」とは、「原文(漢文)のシンタックス」を無視した形で行はれる、「 意訳 」である。
然るに、
(09)
大学(京都帝国大学)に入った二年め(昭和5年)の秋、倉石武四郎先生が中国の留学から帰られ、授業を開始されたことは、私だけではなく、当時の在学生に一大衝撃を与えた。先生は従来の漢文訓読を全くすてて、漢籍を読むのにまず中国語の現代の発音に従って音読し、それをただちに口語に訳することにすると宣言されたのである。この説はすぐさま教室で実行された。私どもは魯迅の小説集『吶喊』と江永の『音学弁徴』を教わった。これは破天荒のことであって、教室で中国の現代小説を読むことも、京都大学では最初であり、全国のほかの大学でもまだなかったろうと思われる(『心の履歴』、「小川環樹著作集 第五巻」、筑摩書房、176頁)。
従って、
(08)(09)により、
(10)
昭和五年、中国から帰国した、倉石武四郎先生は、
「原文(漢文)のシンタックス」を保存した形で行はれる、「翻訳」を止めて、
「原文(漢文)のシンタックス」を無視した形で行はれる、「翻訳」を、授業に、取り入れた。
といふことになる。
(11)
その「結果」として、今日に至って、
「語順が異なれば、シンタックスも異なる」が故に、「大学に入っても、一般に中国文学科では訓読法を指導しない。漢文つまり古典中国語も現代中国語で発音してしまうのが通例で、訓読法なぞ時代遅れの古臭い方法だと蔑む雰囲気さえ濃厚だという(古田島洋介、日本近代史を学ぶための、文語文入門、2013年、はじめに ⅳ)。
といふことになる。
然るに、
(12)
もう一度、確認すると、
③ He had《been〈standing{in[front〔of(the door)〕]for(30 minutes)}〉》⇔
④ 彼は 《〈{[〔(ドア)の〕前]に(30分)間}立って〉ゐ》た。
といふ「英文・訓読」に於ける、
③《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
④《 〈 { [ 〔 ( ) 〕 ]( ) } 〉 》
といふ「括弧(補足構造)」が示してゐる通り、
「語順が異なれば、シンタックスも異なる(語順が等しければ、そのときに限って、シンタックスは等しい)。」といふ「理解」は、「単なる、誤解」に過ぎない。
① 少年易老学難成=
① 少年易(老)学難(成)⇒
① 少年(老)易学(成)難=
① 少年(老ひ)易く学(成り)難し。
(02)
② 少年易老成学難=
② 少年易(老)成(学)難⇒
② 少年(老)易(学)成難=
② 少年(老ひ)易く(学を)成すは難し。
従って、
(01)(02)により、
(03)
「訓読(日本語)の感覚」からすれば、
① 少年易老学難成=少年老ひ易く学成り難し。
② 少年易老成学難=少年老ひ易く学を成すは難し。
に於いて、
① は「正しい漢文・訓読」であって、
② も「正しい漢文・訓読」であると、思はれる。
然るに、
(04)
七言絶句の場合は、第一句・第二句・第四句の末尾が押印することになっている。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、84頁)
(05)
少年易老学難成 少年老い易く学成り難し
一寸光陰不可軽 一寸の光陰軽んず可からず
未覚池塘春草夢 未だ覚めず池塘春草の夢
階前梧葉已秋声 階前の梧葉已に秋声
この有名な七言絶句は、長らく宋の朱子の作と信じられてきたが、近年の研究により、日本の十四世紀頃の僧侶の作であることが判明した。
(加藤徹、白文攻略 漢文法ひとり学び、2013年、32頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
「七言絶句の、押韻に関する、決まり」からすれば、
① 少年易老学難成(sei)=少年老い易く学成り難し。
② 少年易老成学難(nan)=少年老ひ易く学を成すは難し。
に於いて、
① は「正しい七言絶句の、第一句」であって、
② は「正しい七言絶句の、第一句」ではない。
従って、
(03)(06)により、
(07)
「韻文(七言絶句)」ではなく、「散文」としては、
① 学難成=学は成り難し。
② 成学難=学を成すは難し。
に於いて、
① は「正しい漢文・訓読」であって、
② も「正しい漢文・訓読」であると、思はれる。
然るに、
(08)
② 成学難=学を成すは難し。
③ 破賊難=賊を破るは難し。
に於いて、
② は「正しい漢文・訓読」ならば、そのときに限って、
③ も「正しい漢文・訓読」である。
然るに、
(09)
③ 破賊難 =賊を破るは難し。
④ 破心中賊難=心中の賊を破るは難し。
に於いて、
③ は「正しい漢文・訓読」ならば、そのときに限って、
④ も「正しい漢文・訓読」である。
然るに、
(10)
④ 破心中賊難=心中の賊を破るは難し。
の「左辺」は、「王陽明の文」であるため、「正しい」。
従って、
(07)~(10)により、
(11)
② 成学難=学を成すは難し。
③ 破賊難=賊を破るは難し。
に於いて、
② は「正しい漢文・訓読」であって、
③ も「正しい漢文・訓読」である。
従って、
(07)(11)により、
(12)
① 学難成=学は成り難し。
② 成学難=学を成すは難し。
に於いて、
① は「正しい漢文・訓読」であって、
② も「正しい漢文・訓読」である。
然るに、
(13)
① 学は成り難し。
② 学を成すは難し。
に於いて、
① は「正しい日本語」であって、
② も「正しい日本語」であるが、
① は、「学」 を「話題(主題)」にしてゐて、
② は、「学を成す」を「話題(主題)」にしてゐる。
従って、
(12)(13)により、
(14)
① 学難成。
② 成学難。
に於いて、
① は「正しい漢文」であって、
② も「正しい漢文」であるが、
① は、「学」 を「話題(主題)」にしてゐて、
② は、「成学」を「話題(主題)」にしてゐる。
然るに、
(15)
作者が誰かはさておき、「一寸光陰不可軽」は、漢文法の目的語後置の原則に忠実に従えば、
A「不可軽一寸光陰」 (一寸光陰を軽んずべからず)
B「一寸光陰、不可軽之」(一寸光陰は、之を軽んずべからず)
などと書いてもよいはずだ。
しかし、「生起き順の原則」に従えば、「一寸光陰不可軽」も自然な語順である。意識の流れに順番に従えば、
ⅰ「一瞬の時間(話題の提起。主題語)」
ⅱ「(私たちは、どう扱えばよいだろう?」
ⅲ「軽く扱ってはいけない(結論。述語)」でもよい。
従って、
(14)(15)により、
(16)
① 学難成。
② 一寸光陰不可軽。
に於いて、
① は「正しい漢文」であって、
② も「正しい漢文」であるが、
① は、「学」 を「話題(主題)」にしてゐて、
② は、「一寸光陰」を「話題(主題)」にしてゐる。
然るに、
(17)
[副詞]こレ
倒置の明示《目的語を強調するために目的語を動詞の前に出す倒置の場合、倒置したことを示すために目的語と動詞の間に副詞「之」を入れる。「こレ」と読むが、特定のものを指示しない》
従って、
(15)(17)により、
(18)
B「一寸光陰、不可軽之」(一寸光陰は、之を軽んずべからず)
C「一寸光陰之、不可軽」(一寸光陰を、之れ軽んずべからず)
に於いて、
B「一寸光陰」 ではなく、
C「一寸光陰之」の場合は、「強調」を目的とした、「目的語」の「倒置」である。
従って、
(16)(18)により、
(19)
① 学難成 =学は成り難し。
② 一寸光陰不可軽 =一寸の光陰軽んず可からず。
③ 一寸光陰之不可軽=一寸の光陰を之れ軽んず可からず。
① は「正しい漢文・訓読」であって、
② も「正しい漢文・訓読」であって、
③ も「正しい漢文・訓読」であるが、
① は、「学」 を「話題(主題)」にしてゐて、
② は、「一寸光陰」を「話題(主題)」にしてゐて、
③ は、「一寸光陰」を「強調」してゐる。
従って、
(19)により、
(20)
「漢文」に於いて、「目的語(補語)」が、「文頭」にある場合は、その「目的語」は、
(Ⅰ)「話題(主題)」であるか、
(Ⅱ)「強調形」 であるか、
(Ⅲ)「その他(?)」である。
(02)
我嘗欲〔以(漢文)表(我意)〕而不(能)。
然、我之所(最得意)者復文也。
所謂復文者和文漢訳也。
以(是)観(之)、
我之所〔不(足)〕者非(漢訳力)也。
我之所〔不(足)〕者其和文力也。
故、自(今日)、我使〔我鍛(和文力)〕矣。
(03)
我嘗〔(漢文)以(我意)表〕欲而(能)不。
然、我之(最得意)所者復文也。
所謂復文者和文漢訳也。
(是)以(之)観、
我之〔(足)不〕所者(漢訳力)非也。
我之〔(足)不〕所者其和文力也。
故、(今日)自、我〔我(和文力)鍛〕使矣。
(04)
我嘗て漢文を以て我が意を表はさんと欲するも能はず。
然れども、我の最も得意とする所の者は復文なり。
所謂、復文とは和文漢訳なり。
是こを以て之れを観るに、
我の足らざる所の者は漢訳力に非ざるなり。
我の足らざる所の者は其の和文力なり。
故に、今日より、我、我をして和文力を鍛へ使めん。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
我嘗て、漢文を以て我が意を表はさんと欲するも能はず。
然れども、我の最も得意とする所の者は復文なり。
所謂、復文とは和文漢訳なり。
是こを以て之を観るに、
我の足らざる所の者は漢訳力に非ざるなり。
我の足らざる所の者は其の和文力なり。
故に、今日より、我、我をして和文力を鍛へ使めん。
といふ「和文(書き下し文)」を、得ることが、出来るならば(それが正則な漢文であるかどうかは別にしても)、そのときに限って、私自身は、
我嘗欲以漢文表我意而不能。
然、我之所最得意者復文也。
所謂復文者和文漢訳也。
以是観之、
我之所不足者非漢訳力也。
我之所不足者其和文力也。
故、自今日、我使我鍛和文力矣。
といふ「漢文」を書くことが出来る。
従って、
(05)により、
(06)
私自身が、「漢文」が書けるようになるためには、その前に、「和文(書き下し文)」が書けるようになる必要がある。
然るに、
(07)
(筆談の際に)大典が自分の書いた漢文の文章を使節の書記官に見せたところ、そこに訓点がついていたため、成大中は次のように言った。「貴邦(日本)の書籍には、字のかたわらにみな訳音がついているが、これは一国のみで行われるやり方で、万国通行の法ではない。ただ物茂卿は豪傑の士であることがわかる」(もと漢文)
(金文京、漢文と東アジア、2010年、108頁改)
(08)
「訳音」というのは、訓読の送り仮名を言ったものであろう。成大中は、訓読は「万国通行の法」ではないと言い、訓読廃止論者であった徂徠をほめたわけである。この発言からからは、朝鮮知識人の日本に対する優越感が垣間見られるが、同時にそれは当時の朝鮮における訓読観をも示すものである。成大中もかつて自国で日本と同じような訓読が行われていたことを、おそらく知っていたであろう。しかしそれは彼にとって、すでにグローバルスタンダードに合わないものだったのである。
(金文京、漢文と東アジア、2010年、108頁)
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
私自身が、「漢文」が書けるようになるためには、その前に、「和文(書き下し文)」が書けるようになる必要がある。
といふ風に、荻生徂徠先生に言ったとすれば、私は、荻生徂徠先生から、おそらくは、「説教」をされるに違ひない。
(10)
故、自今日、我使我鍛和文力矣=
故、自(今日)、我使〔我鍛(和文力)〕⇒
故、(今日)自、我〔我(和文力)鍛〕使矣=
故に、(今日)自り、我〔我をして(和文力を)鍛へ〕使めん。
といふのは、「具体的」には、「近思録(新釈漢文大系、明治書院)」の中の、「漢文」ではなく、「和文(書き下し文)」に注目し、その中で、「気になる和文(書き下し文)」を、PCに入力してゐます。