おじたん。的ぶろぐ生活。

おじたん。である。語るんである。

スピリチュアルな話。

2007-02-10 01:41:56 | 我思う、故に書くなりよ。
まぁ、捏造騒ぎと一緒なのかもしれないが、根本が「神様」な話なので、そうした騒ぎにはならんのだろうけれど…。

見える人には見えて、見えない人には全く見えない事象を語るのはいかにも不思議なコトにはなる。おじたんも、今まで見たモノが、それが何であるか? 人に伝えるには非常に難しい。世間で一般に広く言うトコロの「幽霊」なのであろうが、見た本人でさえ、それを確定も断定も出来るもんじゃない…ってコトなのだ。

まぁ、いろいろと見てしまった手前、完全に否定もしないけれど、肯定出来るに足るモノも無いワケで、例え、そうした不思議な事象を他人に見せるコトが出来たとしても、それが何であって、こうである…と断定するコトも確定するコトも、無理…。

「ねぇ! 今の何っ?! アンタ見たでしょ?! 何っ!!」
「あー。あれは世間一般では広く「幽霊」とか「霊体」とか呼んでるモノじゃないかな…と、思うんだけどねぇ…」

って位にしか、説明は出来ないな。それでいても、ちゃんと伝わるトコロがこの手の話のスゴイトコロだという点も興味深い。

でまぁ、TVだの週刊誌だのでは、占いだのスピリチュアルだの華が咲いているんだが、これもまぁ目新しいモノでも無く、昔から…ってコトである。

「非常に興味深い…」と捉えるか、「ヨタ話じゃん…」と、捉えるか、昔から華が咲いて来たのであるので、取り立てて騒ぐ話でも無いんだが、一応、そうした占いで無い方を現実に見てしまった経験から言うと、昨今のそれは商業臭さ…ってモノが否定できない面も見受けられるのである。それもまた「華」のひとつだったりするワケだけど。

ただねぇ、アレ(幽霊とか霊体とか、そーした類ね…)と会話出来る…ってのは、非常に興味深いと考えている。

私の経験では、アレらは無言が実に多く、そこがコッチとしては実にもどかしい点である。また、何かを話しているにも関わらず、音声としては無音な場合もあったりするので、そうしたアレらと「会話」が出来たり、その意を汲み取るコトが出来るとなれば、もう少しアレらの理解が個人的に深まるとは思っているのである。稀に、耳に聞こえたとしても「うめき声」や「すすり泣く嗚咽」みたいなモノで、そこから何かを汲み取るのは多分に予断を含んだ想像でしかなくなり、正確を期すには程遠いのである…。

じゃあ、アレらは何なのか?

現状では適当に「幽霊」とか「霊体」と呼称しておけば充分ではあるが、そこから先はどう言い換えてもかなり自由な話。自由の幅があり過ぎて、真偽のほどはどーなんだかサッパリな世界だとも言えよう。

言い伝える…と言うよりは「見せる…」と言う意思伝達が私の場合には多かったりする。何かを「語られる」のではなく、語るに値する映像を見せられる…と言うコトである。

見て欲しい…って頼まれたから、見てみたとある女性には、女性の老人が肩越しに現れていた。その表情は穏やかで、書くとすれば「にこやか」。だけれども、その女性の老人がフッ…と消えて、現れたのは、あたかも暗くなりきらない部屋で、8mmフィルムの映写を観ている感じで現れる「映像」なのである。

部分的に動画だったり、静止画だったりするが、静止画の部分が多い。

んでまぁ、惨い人生の最後を迎えてしまったであろう映像を私は見ているのだが、目の前にいる実在の女性はその映像を見ているワケでは無い。無いのだが、身内にそうした最後を迎えた人物がおり、その惨さってものは、限られた身内以外には知り得なかったりするのである…。

見た限りのモノを言えば、それだけで、「だからどーした?」って部分が無い。人に何かを伝えるとしたら、すんげぇ中途半端な物なのだが、それっきりなのだから、そのまま伝える他に術が無いのも事実。

「おばあさんはヒドイ最後を期せずして迎えてしまったが、非常ににこやかにあなたの後ろにおられるよ…」

まぁ、他人にそんなコトを言われたら相当に驚くのは私も同じだろうと思う。これが、そこに何か音声による伝達があって、なおかつ「会話」が成り立つとしたら、事実として伝達できるコトはかなり情報量が多くなるのだが、そーでは無いのがもどかしいのである。

だいたい、おばあさんかどうかも判らないが、おばあさんとしたのは私の「推測」である。それが事実と該当するのは、その子のおばあさんが事故で悲惨な最期を迎えてしまったと言う事実と符合しているからだ。どーした悲惨な最後かはここでは書かないが、屋内での日常生活の中で起きる事故で、結果としてかなり悲惨…なモノってコトは事実と合っているとのコトだった。

そんなモノがだよ、なんで私には見えて、目の前に実在する彼女には見えないのか、説明の付く理由も無い。また、いつでもどこでも見えるのか? と言えば、そーではなく、最近はサッパリ見てはいない…。

そんな調子なので、面白おかしく、想像を逞しくすれば、私もスピリチュアルなんたらーってコトで、TVで幾何かの収入が稼げたりもするんじゃなかろーか…と、思うのだが、コンスタントに見れないのではそれこそ「捏造」だし、事実だけを語ると娯楽番組には程遠いモノが出来上がったりするんだろうから、望みはしないんだが…。

「出て来い! オヤジっ!」

近年、父を肺ガンで失っているだけに、この叫びは切実だが、現れる気配も無い。
父を失う少し前、母方の祖母が自分の墓石をニコニコしながら掃除している映像を見た。事情があって、ちょいと離れた地に墓石があるのだが、父としてもそこを訪れるのは最後になるであろうと思い、家族で訪れたりもしたのだが、だからと言って何か特別な事象があったワケでは無い。世を去った父が、全く現れないとも、現れるとも言えないワケで、そうした概念に基づくなら父は「アレら…」になっていても悪くは無いと思うのだが…。

ま、アレら…は未だに未知なモノには変わりなく、私の見た限りで言えば、信仰とはおよそ関係無いらしいモノでもある。一方的な場合が多いし、意思の疎通が図れたためしも無いので、呪文だとか、経だとか、そうした宗教的要素が何か関わりのあるモノとも言えないと思う。そうした、未知なるモノが、存在しそうなコトは見ているので判るのだが、その立証は限りなく困難で、そこから何かを得る…と言うコトになれば、限りなく「マユツバ」的なモノとして捉えても致し方ないかと思う。

今のトコロ、そうしたモノに人生を左右される必要も無ければ、その根拠も無いと考えてはいるが、全く無いモノかと言えばそうとも言い切れない…ってコトなんだろうね…。そうしたモノだからこそ、尾ひれが付きやすいモノでもあるわけだし、想像の域を出ないモンだから、広がる世界は果てしなく…って話だな。

それを商売にしても悪くはなかろうが、度が過ぎると「アレら」の存在に対する探求も迷惑を蒙るコトになろうかと思うあたりが残念と言えば残念。

ちなみに、おじたんの場合、頼まれて見ても、何も見えない時は「何も見えない…」と伝えている。見えているコト自体、説明が付かない上に、そこに脚色や捏造は不必要だし、そうしてしまうのは探求する気持ちを歪曲してしまうからである。

「何も見えねぇってってんだろがー!」

と、口論になるから面白い。何も見えない人ほど、「絶対何か見えるハズ」と考えて見てもらうコトを所望したりするんであるね。仮に見えたとしても、例えば悲しそうにこちらをじーーーって見据えているおじいさんが、

「わたしはこの人のお父さんのお父さんの兄弟で、昭和9年に火事で死んでしまい…」

なんてコトを言ったりもしないし、プラカード持参で立っているワケでも無いので、

「あんた、どこの誰よ?」

って場合がほとんどだったりするんである。まぁ、それ以外に一方的に見せられる映像に因っては、それらしいコトが類推出来たりもする場合があるが、国民服と言われた上着の左胸にでっかく「大田区 定吉」とか書いて縫い付けてあったりするのは非常に稀なのであるね…。

そうさなぁ…。宗教とか、信仰に頼るコトの無いカタチでこうした「アレら」の研究がもっと進んでくれると興味深いんだが、進めるにも進まないか…、アレらじゃ…。
現実としては、実用には足らない…って捉えて不思議ではない。肯定するよりも、否定する方法の方が圧倒的に多いのも事実であると、そうした前置きを持参して楽しむべき事象ではなかろうかね? そうしたコトを書いても、アレらからクレームが来るコトも今のトコロ無い。あるとすれば「実在するアレら…」な方々だろうか。

さしづめ、かなり暇なおじたんにしてみれば…

「どーんと来い! 心霊現象!」

ってコトかな。そろそろ科学的な手法で結果がちらほら出ても悪く無いんだけどね。


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