おじたん。世代から見ると、国士舘大学サッカー部の未成年婦女子集団猥褻しまくり事件ってのは…
「国士舘じゃしょーがねーな…」
って事でもある。おじたん。が、ご幼少の頃からそう言うイメージの大学であった。それと判る付属高校の制服を見かければ、避けて通るのが無難という暗黙の了解が存在したし、同級生がそこへ進めば「強力な仲間が出来た!」と思うのが常でもあった。
で、そんなイメージは一部の地方的な慣習の様な物では無く、全国的な物だったと知ったのは成人してからである。声を大にして言う事は無いが、裏の話題としては広く知れ渡っていたかに思う。良い意味で「バンカラ」であればそれはそれで良かったのかもしれないが、半ば「暴力団」的な意味合いで見られた時代もあったかに思う。
ただ、私としては命の恩人でもある。写真学校の生徒だった頃、横浜の裏路地で朝鮮高校の連中によってたかって一方的に暴行を受けた際、助けてくれたのが国士舘大学の学生達だった。カメラを守る事だけに必死だった私は、死ぬかと思うくらいに一方的に殴られ、蹴られ、うずくまる他に無かったのだが、彼らはそんな私をあっという間に助けてくれた。なんせ、頭にブロックを落とされそうになってたワケで、目の前でブロックがアスファルトに砕けた時は、ダメかと思ってた。財布と鍵束を奪われたが、カメラは無事で、大した怪我も無く助かったのは彼らのお陰である。
名前を尋ねると、名乗ってくれなかった。ただ、国士舘の大学生とだけ言い、この4人とは暖かい言葉を交わして別れた。さわやかで、正義感の強い大学生がいた事に感謝するとともに、国士舘らしい学生だとも思ったものである。と、同時に朝鮮人は嫌いになった。韓国は好きだが、朝鮮は大嫌いだ。一生許す事は私において無い。
まぁ、個人的には良いイメージもある大学だが、世間的には良くないイメージが長くつきまとうのは今の時代大学としては何とかしたい所。だいぶ前からイメージの改善に努力はしていたと思う。女子学生も増えたし独特の雰囲気も変わって来ていると思っている。実際にもそうだと思う。今時の学生はイメージの如何が大事であって、あえてマイナスイメージを身にまとうヤツはいない。
ではなんでこうした事件が起きるのか? 未成年と猥褻行為をしまくっても、罪になると考えて無いんだと思う。確かに、私も「未成年と猥褻行為をすると警察に捕まる」なんて学校で教わった事は記憶に無い。教わった事は一度たりとも無いが、新聞を読むなり、ニュースを見るなりして、どういう事が犯罪として処罰されるか、知るワケである。また、それは自分が真似して実行しても、同じ結果になると知って判るからやらないのだ。そもそも、犯罪は犯してはいけない物と認知する事も常識のうちの1つだし、基本中の基本だ。基本中の基本の欠如。
全国に名前や住所、職業がさらされ、親族はおろか、友人、知人、近所の人にも犯した犯罪が知られる事が、どういう事になるか想像が付かないワケではあるまい。そこまで晒されなかったとしても、裁判が終われば誰でも閲覧出来る状態に「犯行の様子」「どこの何がし」等は置かれる。新聞紙が書かなくても、週刊誌は書くだろう。
そうした目に遭わないと、犯した罪を認知出来ないレベルの人間が大学生であり、サッカー部であり、国士舘大学であったと言う事で、どこの大学でも間違いなく起きる事件だと思う。大学に限らず、って事もあるがね。表沙汰にならないだけで、珍しい事では無いとも言われて来た犯罪の1つだ。
今回の被害者がどうであったかは知らないが、被害を受ける恐れがあると認知していないが、被害を受けても当然のファッションや、生活行動をする人間がいる事も事実だ。常識から大きくかけ離れた所に自分をおき、それを個性と主張する、自由と主張するのは構わない。だが、そこには大きなリスクが存在する事を知らなければならない。下手すれば命に関わるリスクだが、それを背負ってやっているならば、それは「自己責任」となる。未成年に自己責任を問い詰めるつもりは無い。だが、親にはそうしたリスクを教え、出来るならばそこから遠ざける努力をしなければならない義務がある。
親も子も、世代に関係なく常識からかけ離れた所に価値観を見る社会に犯罪は蔓延り易い。裸同然の未成年が深夜をうろつき、非合法薬剤とSEXに身を沈めるのが「ヤバイ」程度で済まされる社会が現実にあるワケで、その程度の認識が「常識」化しつつある事の危機感がこの国には無い。犯罪が広く浸透する事に対する攻めの姿勢が何も無い。
家庭でも、教育の場でも、常識ってものが人から人に伝わらない状態なのだと思う。個性と言う名目の自由を与えすぎたフィードバックは何だったのか? 薬チュウの増加、性病の蔓延、少年犯罪の増加、性犯罪の増加、悪い事を数えたらキリが無い。倫理社会の教師が生徒に猥褻行為して捕まって、しらを切る時代だ。未成年だの社会人だの、問わずに危機感を感じるべき社会ではないのだろうか? 社会の熟成とともに進化発展する犯罪に見合うリスクをしっかりと負わせられなかった法制度に問題があった事を、放置させてしまったのは誰なんだ?
さて、国士舘大学の学生諸君。とんでもない汚名を着せられた事を恥じるべきだし、これは事実だ。世間の大多数は、こうした事件は一部の限られた学生が起こした物だと知っている。学生ならではのパワーが君達にはある。そのパワーを集めて、自浄努力に向かえば、そんな汚名を払拭出来るばかりか、どこの大学にだって負けない名誉を勝ち取る事だって可能だと思う。事件の解決を、大人に任せ切りで良いのか? 教授や教官だけに任せていていいのか? 学生が起こした汚名を、学生の手で取り戻す事無くして、他人事で済ませていては、大きな汚名はいつまで経っても拭えないのではないか?
少なくとも、私の知る限り、国士舘大学の学生は正義感あふれる、すがすがしいヤツらだった。それは今でも変わらないと、私は信じている。学生だからこそ、考えて考えて、考え抜いて導かれる方法がきっとあると思う。非難や糾弾は誰だって出来る。罪を犯した学生は、それに相応しい罰がしっかりと与えられて然るべきで、学生だから…と甘んじる事は許されない。だが、それらは大人がやる。
学生だから出来る事、学生だからやらなければいけない事が、今、あると思う。これからどうしなければいけないか? どうしたらこの様な事が二度と起きないか? 学生の側から声を挙げるべきではないだろうか。知る方法を学び、知る事を学び、考える方法を学び、考える。それが大学生だからこそ許される贅沢にも思える時間と空間ではなかったか? より良い就職のための、より良い将来の生活のための通過点に過ぎないのかもしれない。だが、大学生と言う4年間を、単なる通過点にしてしまったからこそ起きてしまった事件だと考えても悪くないと思う。国士舘の大学生と言うステータスを良くも悪くも変えるのは君達学生にしか出来ない事だから、考えて、考え抜いて、行動に移して欲しい。
今では声にさえ出なくなって久しい言葉「国士」。国士舘の国士が持つ意味を、今一度考えて欲しい。
「国士舘じゃしょーがねーな…」
って事でもある。おじたん。が、ご幼少の頃からそう言うイメージの大学であった。それと判る付属高校の制服を見かければ、避けて通るのが無難という暗黙の了解が存在したし、同級生がそこへ進めば「強力な仲間が出来た!」と思うのが常でもあった。
で、そんなイメージは一部の地方的な慣習の様な物では無く、全国的な物だったと知ったのは成人してからである。声を大にして言う事は無いが、裏の話題としては広く知れ渡っていたかに思う。良い意味で「バンカラ」であればそれはそれで良かったのかもしれないが、半ば「暴力団」的な意味合いで見られた時代もあったかに思う。
ただ、私としては命の恩人でもある。写真学校の生徒だった頃、横浜の裏路地で朝鮮高校の連中によってたかって一方的に暴行を受けた際、助けてくれたのが国士舘大学の学生達だった。カメラを守る事だけに必死だった私は、死ぬかと思うくらいに一方的に殴られ、蹴られ、うずくまる他に無かったのだが、彼らはそんな私をあっという間に助けてくれた。なんせ、頭にブロックを落とされそうになってたワケで、目の前でブロックがアスファルトに砕けた時は、ダメかと思ってた。財布と鍵束を奪われたが、カメラは無事で、大した怪我も無く助かったのは彼らのお陰である。
名前を尋ねると、名乗ってくれなかった。ただ、国士舘の大学生とだけ言い、この4人とは暖かい言葉を交わして別れた。さわやかで、正義感の強い大学生がいた事に感謝するとともに、国士舘らしい学生だとも思ったものである。と、同時に朝鮮人は嫌いになった。韓国は好きだが、朝鮮は大嫌いだ。一生許す事は私において無い。
まぁ、個人的には良いイメージもある大学だが、世間的には良くないイメージが長くつきまとうのは今の時代大学としては何とかしたい所。だいぶ前からイメージの改善に努力はしていたと思う。女子学生も増えたし独特の雰囲気も変わって来ていると思っている。実際にもそうだと思う。今時の学生はイメージの如何が大事であって、あえてマイナスイメージを身にまとうヤツはいない。
ではなんでこうした事件が起きるのか? 未成年と猥褻行為をしまくっても、罪になると考えて無いんだと思う。確かに、私も「未成年と猥褻行為をすると警察に捕まる」なんて学校で教わった事は記憶に無い。教わった事は一度たりとも無いが、新聞を読むなり、ニュースを見るなりして、どういう事が犯罪として処罰されるか、知るワケである。また、それは自分が真似して実行しても、同じ結果になると知って判るからやらないのだ。そもそも、犯罪は犯してはいけない物と認知する事も常識のうちの1つだし、基本中の基本だ。基本中の基本の欠如。
全国に名前や住所、職業がさらされ、親族はおろか、友人、知人、近所の人にも犯した犯罪が知られる事が、どういう事になるか想像が付かないワケではあるまい。そこまで晒されなかったとしても、裁判が終われば誰でも閲覧出来る状態に「犯行の様子」「どこの何がし」等は置かれる。新聞紙が書かなくても、週刊誌は書くだろう。
そうした目に遭わないと、犯した罪を認知出来ないレベルの人間が大学生であり、サッカー部であり、国士舘大学であったと言う事で、どこの大学でも間違いなく起きる事件だと思う。大学に限らず、って事もあるがね。表沙汰にならないだけで、珍しい事では無いとも言われて来た犯罪の1つだ。
今回の被害者がどうであったかは知らないが、被害を受ける恐れがあると認知していないが、被害を受けても当然のファッションや、生活行動をする人間がいる事も事実だ。常識から大きくかけ離れた所に自分をおき、それを個性と主張する、自由と主張するのは構わない。だが、そこには大きなリスクが存在する事を知らなければならない。下手すれば命に関わるリスクだが、それを背負ってやっているならば、それは「自己責任」となる。未成年に自己責任を問い詰めるつもりは無い。だが、親にはそうしたリスクを教え、出来るならばそこから遠ざける努力をしなければならない義務がある。
親も子も、世代に関係なく常識からかけ離れた所に価値観を見る社会に犯罪は蔓延り易い。裸同然の未成年が深夜をうろつき、非合法薬剤とSEXに身を沈めるのが「ヤバイ」程度で済まされる社会が現実にあるワケで、その程度の認識が「常識」化しつつある事の危機感がこの国には無い。犯罪が広く浸透する事に対する攻めの姿勢が何も無い。
家庭でも、教育の場でも、常識ってものが人から人に伝わらない状態なのだと思う。個性と言う名目の自由を与えすぎたフィードバックは何だったのか? 薬チュウの増加、性病の蔓延、少年犯罪の増加、性犯罪の増加、悪い事を数えたらキリが無い。倫理社会の教師が生徒に猥褻行為して捕まって、しらを切る時代だ。未成年だの社会人だの、問わずに危機感を感じるべき社会ではないのだろうか? 社会の熟成とともに進化発展する犯罪に見合うリスクをしっかりと負わせられなかった法制度に問題があった事を、放置させてしまったのは誰なんだ?
さて、国士舘大学の学生諸君。とんでもない汚名を着せられた事を恥じるべきだし、これは事実だ。世間の大多数は、こうした事件は一部の限られた学生が起こした物だと知っている。学生ならではのパワーが君達にはある。そのパワーを集めて、自浄努力に向かえば、そんな汚名を払拭出来るばかりか、どこの大学にだって負けない名誉を勝ち取る事だって可能だと思う。事件の解決を、大人に任せ切りで良いのか? 教授や教官だけに任せていていいのか? 学生が起こした汚名を、学生の手で取り戻す事無くして、他人事で済ませていては、大きな汚名はいつまで経っても拭えないのではないか?
少なくとも、私の知る限り、国士舘大学の学生は正義感あふれる、すがすがしいヤツらだった。それは今でも変わらないと、私は信じている。学生だからこそ、考えて考えて、考え抜いて導かれる方法がきっとあると思う。非難や糾弾は誰だって出来る。罪を犯した学生は、それに相応しい罰がしっかりと与えられて然るべきで、学生だから…と甘んじる事は許されない。だが、それらは大人がやる。
学生だから出来る事、学生だからやらなければいけない事が、今、あると思う。これからどうしなければいけないか? どうしたらこの様な事が二度と起きないか? 学生の側から声を挙げるべきではないだろうか。知る方法を学び、知る事を学び、考える方法を学び、考える。それが大学生だからこそ許される贅沢にも思える時間と空間ではなかったか? より良い就職のための、より良い将来の生活のための通過点に過ぎないのかもしれない。だが、大学生と言う4年間を、単なる通過点にしてしまったからこそ起きてしまった事件だと考えても悪くないと思う。国士舘の大学生と言うステータスを良くも悪くも変えるのは君達学生にしか出来ない事だから、考えて、考え抜いて、行動に移して欲しい。
今では声にさえ出なくなって久しい言葉「国士」。国士舘の国士が持つ意味を、今一度考えて欲しい。