ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

言の葉(少女ジーザス):野の花の美しさ。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。

2021年07月10日 00時00分16秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
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 わたしはある主日にいつものように何年も着て着古したTシャツとジーンズで主イエス・キリストの教会の礼拝に出席した。礼拝が終わり帰ろうとするとわたしに声を掛けてくる女性があった。彼女はこう言った。
 「ねえ、少女ジーザスさん、いい加減にそんな服装で教会に来るのをやめてくれないかしら? 」
 その女性は牧師夫人であった。だから主任牧師に「あいつが来たらこう言えよ」と命令されていたのに違いない。なぜその主任牧師はわたしに直接言えなくて夫人に言わせたのだろう?言いにくいことは「女性である自分の奥さんに言わせるに限る。それに女性なら男性の自分が言うより効果的だし、女性だからということで自分の要請が聞きいれられるかもしれない」などという思惑があったに違いない。
 わたしは他の教会のメンバーのように「教会用の晴れ着」など買う経済的余裕などなかった。そのくらいのことを理解してくれるのが真の牧師ではないだろうか?
 主イエス・キリストが二千年前に弟子にした人々はみんな「主の御前」だからということで「教会の晴れ着」など買って用意したのだろうか? たとえば現代、経済的な余裕のない人はサラ金に手を出してお金を借りてでもそれを手に入れなければならないのだろうか?わたしは不思議でならない。
 私に対して「そんな服装で教会に来てほしくない」とハッキリ言ったその言論はそれこそ主が勧める基本的人権の尊重としての「言論の自由」として正しい。しかし、本当にその「自由な言論」のナカミ(内容」は正しかったのだろうか?わたしに経済的余裕のなかったことくらい分かっていたはずなのに。
 もちろん事情は二千年前とは違うと主張するのはこれまた「言論の自由」である。しかし二千年前でなくとも「経済活動の成果=財の蓄積」は個人個人によって異なるのである。いくら礼拝の中で「わたしたちは多くいてもひとつの体です」というお祈りをみんなで唱えても、神の国は個人の尊厳を無視するたとえば北朝鮮のような全体主義国家ではない。
 わたしは福音書の次のみ言葉をあらためて噛みしめてみたいと思う。
  
 「また、なぜ、着物のことで思い煩うのか。野の花がどうして育っているのか、考えて見るがよい 」(マタイ:6・28)

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