それだから、キリストの力がわたしに宿るように、
むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、
侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。
なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
(コリント人への第二の手紙第12章9節から10節 )
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
フツーのクリスチャンのわたしは上記引用の大使徒パウロに与えられたみ言葉のように人生が何事もなく、うまくいっている時には「自分の弱さ」を自覚する力が主より与えられにくい。しかしだからと言って、ではフツーのクリスチャンというのはいつも、病気であったり、事故や災害にあってしまったり、家庭内の人間関係がうまくゆかなかったり、自分がフツーのクリスチャンだということだけで迫害されたり、いわば災難にあいつづけなければいけないのかという疑問が湧いてくる。
しかししかしである。
およそ「人間という動物ならば」いわゆる災難のただひとつもない、100%幸福に満ち溢れているなどという人はいないのではないか。
主ご自身も人性をおとりくださったことによって「人間という動物」を魂の奥底まで知りつくしておられた。だから大使徒パウロに「わたしはそういうあなたを愛しているよ。いつもそばにいるよ」という愛の限りをこめて上記引用のみ言葉を書かせたのである。
そして「あなたのそんな弱さのためにこそわたしは自分の十字架として背負ったんだよ。安心しなさい。あなたのその弱さはすべて主であるわたしへの祈りなのだから」と、主はフツーのクリスチャンのわたしに今もいつも語りかけていてくださっている。
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
↓:♥。✝。
にほんブログ村