そのころ百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立って言った。
「兄弟たち。イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて聖霊がダビデの口を
通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。
ユダは私たちの仲間として数えられており、この務めを受けていました。
(ところがこの男は、不正なことをして得た報酬で地所を手に入れたが、真っ逆さまに
落ち、からだは真っ二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった。このことが
エルサレムの住民全部に知れて、その地所は彼らの国語でアケルダマ、すなはち『血の地所』
と呼ばれるようになった)。
実は詩編には、こう書いてあるのです。
『彼らの住まいは荒れ果てよ。そこには住む者がなくなれ』また、『その職はほかの人に取らせよ』
ですから、主イエスが私たちといっしょに生活された間、すなわち、ヨハネのバプテスマから始まって
私たちを離れて天にあげられたまでの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から誰かひとりが、
私たちとともに主イエスの復活の証人とならなければなりません」。
(使徒行伝 第1章 15から22節 )
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主イエスが復活したので、その前主を三度否んだペテロは上記引用聖句のように
聖霊がそそがれて見事に立ち直って使徒たちのリーダー的存在になった。
ここはカトリックと違っていくらペテロがリーダー格になったからといって
わたしたちの宗派ではペテロを教皇になどしない。
それにしてもよくペテロは立ち直ったものである。
わたしだったらずっととこしえに他の使徒たちから逃げ隠れしてほそぼそとお祈りを
していたと思う。だから教皇になる素養があるんじゃないかというカトリックの人たちの
声が聞こえてきそうである。
しかしだからといってペテロがこの地球全体主イエスの弟子のかしらになってこの地球の
キリスト教をひっぱってゆくというような立場にはなれない。主を三度否んだからではない。
この地球上のキリストの弟子たちを引っ張ってゆくなどということは主イエス・キリスト
ご自身でなければできないからである。
主イエス・キリストの御名によって。
アーメン。
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