恋をすると、すぐ身近に、しかしいくら願っても
手の届かない巨大な幸福があるような気がする。
しかもその幸福は、ただ一つの言葉、一つの微笑み
にのみ左右される。
(『幸福論』<上>第一部三十一章 )
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
わたしは以前にもフツーのクリスチャンとして「恋愛」と「主への信仰」は似ていると書いた。
上記の引用したスタンダールの『恋愛論』の一節はまさにこのことを言い得ている。
”恋をすると、すぐに身近に、しかしいくら願っても手の届かない巨大な幸福があるような気がする”。この一節は特に主イエス・キリストと信仰者の関係を表わしている。
主を身近に感じさせていただいても、その愛は無限であるからだ。
だからこんなに身近に存在してくださるのに、どうして主は手が届かない方なのだろうと思ってしまう。つまりいくらお祈りしても主の愛とわたしの愛は全宇宙とただひとつの小さな種との違いがある。
しかしわたしは祈り続ける。
永遠にあたらしいいのち、つまり主の愛そのものへと変えていただくために。
わたしという小さな種が、生命の樹へと成長させていただくために。
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↓:種。たね。
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しかもその幸福は、ただ一つの言葉、一つの微笑み
にのみ左右される。
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わたしは以前にもフツーのクリスチャンとして「恋愛」と「主への信仰」は似ていると書いた。
上記の引用したスタンダールの『恋愛論』の一節はまさにこのことを言い得ている。
”恋をすると、すぐに身近に、しかしいくら願っても手の届かない巨大な幸福があるような気がする”。この一節は特に主イエス・キリストと信仰者の関係を表わしている。
主を身近に感じさせていただいても、その愛は無限であるからだ。
だからこんなに身近に存在してくださるのに、どうして主は手が届かない方なのだろうと思ってしまう。つまりいくらお祈りしても主の愛とわたしの愛は全宇宙とただひとつの小さな種との違いがある。
しかしわたしは祈り続ける。
永遠にあたらしいいのち、つまり主の愛そのものへと変えていただくために。
わたしという小さな種が、生命の樹へと成長させていただくために。
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