さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、
十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に
負われた。その傷によって、あなたがたは、いやさ
れたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷って
いたが、今は、たましいの牧者であり監督である方
のもとに、立ち帰ったのである。
(ペテロの第一の手紙 第2章 24節)
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
上記に引用した聖書の言葉には、フツーのクリスチャンはいったい何をどう信じているかが簡潔に書き記されている。主イエス・キリストの十字架の死を「この自分のために」と心底信じることができることができるのは、やはり「この自分の罪」、「この自分はどうしようもない罪人(つみびと)である」というハッキリと全身全霊で「自覚」する必要がある。
どうも「罪人(つみびと)」という「自覚」は「この自分には関係ない」、「この自分が罪人(つみびと)だなんて思えない」という人には、一度聖書を、特に福音書を読んでみることをお勧めする。
わたし自身が最も「この自分が主イエス・キリストを十字架の死においやってしまった一人だ」」という「自覚」を強く持つのは、たとえば「十字架につけろ、十字架につけろ! 」と叫んだごくフツーの群衆たちがいたという福音書の記述である。この群衆にしてみれば、当時の自分たちの宗教指導者や王様や役人たちが、「イエスは死罪にあたる者だ」というレッテルを信じただけなのだ。もちろん「自分はイエスとは全く関係ないよ」という意思表示を王や役人たちや宗教指導者にするためにである。つまり自分自身で主イエス・キリストのことをよく考えることをしなかったのだ。
この驚くべき悲しむべき「群衆心理」は今でもフツーのクリスチャンのわたし自身のなかにもあるのだ。
あなたは他者をこんな風にいじめたこと(十字架に追いやったこと)がただの一度もないとハッキリと胸を張って断言できる人間だろうか?
「群衆心理」は「当世流行の心理」「当世流行の思想」「当世流行の考え方、生活」のなかに巣くっている。それらはあなたをいつ破滅に追いやるか分からないのだ。主イエス・キリストを十字架につけた群衆のように。
あなたもわたしもよくよく気をつけるべきだと思う。
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十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に
負われた。その傷によって、あなたがたは、いやさ
れたのである。あなたがたは、羊のようにさ迷って
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のもとに、立ち帰ったのである。
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上記に引用した聖書の言葉には、フツーのクリスチャンはいったい何をどう信じているかが簡潔に書き記されている。主イエス・キリストの十字架の死を「この自分のために」と心底信じることができることができるのは、やはり「この自分の罪」、「この自分はどうしようもない罪人(つみびと)である」というハッキリと全身全霊で「自覚」する必要がある。
どうも「罪人(つみびと)」という「自覚」は「この自分には関係ない」、「この自分が罪人(つみびと)だなんて思えない」という人には、一度聖書を、特に福音書を読んでみることをお勧めする。
わたし自身が最も「この自分が主イエス・キリストを十字架の死においやってしまった一人だ」」という「自覚」を強く持つのは、たとえば「十字架につけろ、十字架につけろ! 」と叫んだごくフツーの群衆たちがいたという福音書の記述である。この群衆にしてみれば、当時の自分たちの宗教指導者や王様や役人たちが、「イエスは死罪にあたる者だ」というレッテルを信じただけなのだ。もちろん「自分はイエスとは全く関係ないよ」という意思表示を王や役人たちや宗教指導者にするためにである。つまり自分自身で主イエス・キリストのことをよく考えることをしなかったのだ。
この驚くべき悲しむべき「群衆心理」は今でもフツーのクリスチャンのわたし自身のなかにもあるのだ。
あなたは他者をこんな風にいじめたこと(十字架に追いやったこと)がただの一度もないとハッキリと胸を張って断言できる人間だろうか?
「群衆心理」は「当世流行の心理」「当世流行の思想」「当世流行の考え方、生活」のなかに巣くっている。それらはあなたをいつ破滅に追いやるか分からないのだ。主イエス・キリストを十字架につけた群衆のように。
あなたもわたしもよくよく気をつけるべきだと思う。
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