ヨブが利益もないのに神を敬うでしょうか。
(「ヨブ記」1章 9節 )
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キリスト教はいわゆる御利益宗教ではないとされている。
しかし一生懸命「主に少しでも似た者にしていただくために」主に祈り求めることも、一般的な御利益とは全く違うにしても、結局は「利益」ということになるとわたしは思う。そもそも「主に対する信仰」が主ご自身より与えられることも「利益」といえば「利益」からだ。
「信仰」も「お祈り」も主より与えられるものだというのがフツーのクリスチャンの信仰である。しかしこれは決して(キレイごとを言うつもりはさらさらないが)、お気楽な軽い「ギブ・アンド・テイク」ではない。
主ご自身はわたしたちにいのちを与えて生かしている御方だからである。いわば一般的な宗教の「教祖さま」ではない。全宇宙のすべてのものを創造し、すべてを治めておられる「いのちの与え主」だからである。
そして主イエス・キリストは「人間になった神」であるがゆえに、人類の(その他の生命体すべての)「救い主」である。この御方の十字架の死はわたしたちいのちあるすべてのものの罪のためであり、その死よりの復活はわたしたちいのちあるすべてのものを「復活のいのち」に生かすためである。
この御方よりのわたしたちフツーのクリスチャンの信仰は「利益」といえばごくフツーの利益である。
わたしたちフツーのクリスチャンは恐れなくまるで小さな子供が親にかけよって抱きついて甘えるように、この御方の御前に生きている。生かしていただいている。
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(「ヨブ記」1章 9節 )
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キリスト教はいわゆる御利益宗教ではないとされている。
しかし一生懸命「主に少しでも似た者にしていただくために」主に祈り求めることも、一般的な御利益とは全く違うにしても、結局は「利益」ということになるとわたしは思う。そもそも「主に対する信仰」が主ご自身より与えられることも「利益」といえば「利益」からだ。
「信仰」も「お祈り」も主より与えられるものだというのがフツーのクリスチャンの信仰である。しかしこれは決して(キレイごとを言うつもりはさらさらないが)、お気楽な軽い「ギブ・アンド・テイク」ではない。
主ご自身はわたしたちにいのちを与えて生かしている御方だからである。いわば一般的な宗教の「教祖さま」ではない。全宇宙のすべてのものを創造し、すべてを治めておられる「いのちの与え主」だからである。
そして主イエス・キリストは「人間になった神」であるがゆえに、人類の(その他の生命体すべての)「救い主」である。この御方の十字架の死はわたしたちいのちあるすべてのものの罪のためであり、その死よりの復活はわたしたちいのちあるすべてのものを「復活のいのち」に生かすためである。
この御方よりのわたしたちフツーのクリスチャンの信仰は「利益」といえばごくフツーの利益である。
わたしたちフツーのクリスチャンは恐れなくまるで小さな子供が親にかけよって抱きついて甘えるように、この御方の御前に生きている。生かしていただいている。
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