さいわいを見ようとして、いのちを慕い、
ながらえることを好む人はだれか。
(詩篇第34編 12節 )
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フツーのクリスチャンではなくても、「いのち」というものをもって「生きている」「生命体」ならば、生きたい、生きよう、生きていたい、と思ってごくフツーだし、至極当然のことである。
上記引用の詩篇の一節には「さいわいを見ようとして、いのちを慕い……」とある。生きたい、生きよう、生きていたい、と思うのは、どのような「生命体」でも「さいわい」になりたいからである。つまり幸せになりたいからである。このしあわせになりたい、幸福になりたいと思うのも「生命体」ならフツーのことである。
もし「わたしはしあわせではなく不幸になりたい」ということを本当に魂の奥底から言える「生命体」が存在するとしたら、フツーのクリスチャンのわたしでもずいぶん珍しい「生命体」だ、全宇宙を捜してもめったに御目にかかれないとびっくりして彼らを見るだろう。
しかし主ご自身は無限大の御方である。
愛はどのような「生命体」でも愛するのだ。
だから愛が創造した「生命体」はいかなる者でも主の被造物である。
そして主は愛そのものの御方だから、どのような「生命体」でも御手をもって包み抱きしめてくださる。
わたしたちはフツーのクリスチャンとしてこの御方の御手の内に生きていたいと思う。
主イエス・キリストの御名によって。アーメン。
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上記引用の詩篇の一節には「さいわいを見ようとして、いのちを慕い……」とある。生きたい、生きよう、生きていたい、と思うのは、どのような「生命体」でも「さいわい」になりたいからである。つまり幸せになりたいからである。このしあわせになりたい、幸福になりたいと思うのも「生命体」ならフツーのことである。
もし「わたしはしあわせではなく不幸になりたい」ということを本当に魂の奥底から言える「生命体」が存在するとしたら、フツーのクリスチャンのわたしでもずいぶん珍しい「生命体」だ、全宇宙を捜してもめったに御目にかかれないとびっくりして彼らを見るだろう。
しかし主ご自身は無限大の御方である。
愛はどのような「生命体」でも愛するのだ。
だから愛が創造した「生命体」はいかなる者でも主の被造物である。
そして主は愛そのものの御方だから、どのような「生命体」でも御手をもって包み抱きしめてくださる。
わたしたちはフツーのクリスチャンとしてこの御方の御手の内に生きていたいと思う。
主イエス・キリストの御名によって。アーメン。
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