「我々の耳が言葉の霊的な意味よりもメロディーの方に
より強く傾いてしまわないように十分警戒しなければ
ならない」
(『祈りについて』カルヴァン著 )
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
上記に引用した言葉は「賛美歌」を歌うときに特に注意しなければならないことだ。これは「読書をする」という行為への注意にも通じるものである。大切なのは「言葉の意味」「言葉が指し示すもの」であって、どのような美しいと感じる言葉であっても、その表面的な美しさだけに囚われてしまって肝心なことに自分自身で覆いをかけてしまわないようにすることだ。たとえばあなたは「賛美歌」に限らずフツーの歌謡曲を聞くだろうか? その際メロディーに引かれるだろうか? 歌詞に惹かれるだろうか?
カルヴァンが強く警告しているのはメロディーに酔って歌詞の意味が分からないようになるなということである。神の啓示を過たずに受け取れということである。
これは読書についても同じだとわたしは思っている。ひとつひとつの言葉の雰囲気や奇抜さ、文章のうまさに騙されてはいけない。「この本を書いた著者ははたして何が言いたいのだろうか」を常に考えなければならない。なぜカルヴァンの賛美歌についての警告まで持ち出して「読書」についての警告とするのか?
それはフツーのクリスチャンのわたしにとってどのような「本」を読んでいても読書は主イエス・キリストのみ言葉を戴く「お祈り」だからである。
わたしは幼いころから読んできた本の一冊一冊を使って主の主王の王主イエス・キリストが、わたしと一緒に本を読んでくださりその時その時に応じていつも「主イエス・キリストのみ言葉」を与えてくださったと胸を張って宣言できるものである。
「聖書」はすべての本の中でも中心となるわたしにとっては、わたしのいのちを創造し続けてくださる「主イエス・キリストの本」である。フツーのクリスチャンのわたしはいかに奇抜なことが、珍しいことが書かれていても興味深い本を読んでも、主イエス・キリストの御力で必ずみ言葉が与えられ、そして「主イエス・キリストの本=聖書」を読解するために役立てて下さっていることを実感し、主に感謝している。
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
↓:読書。
にほんブログ村
より強く傾いてしまわないように十分警戒しなければ
ならない」
(『祈りについて』カルヴァン著 )
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
上記に引用した言葉は「賛美歌」を歌うときに特に注意しなければならないことだ。これは「読書をする」という行為への注意にも通じるものである。大切なのは「言葉の意味」「言葉が指し示すもの」であって、どのような美しいと感じる言葉であっても、その表面的な美しさだけに囚われてしまって肝心なことに自分自身で覆いをかけてしまわないようにすることだ。たとえばあなたは「賛美歌」に限らずフツーの歌謡曲を聞くだろうか? その際メロディーに引かれるだろうか? 歌詞に惹かれるだろうか?
カルヴァンが強く警告しているのはメロディーに酔って歌詞の意味が分からないようになるなということである。神の啓示を過たずに受け取れということである。
これは読書についても同じだとわたしは思っている。ひとつひとつの言葉の雰囲気や奇抜さ、文章のうまさに騙されてはいけない。「この本を書いた著者ははたして何が言いたいのだろうか」を常に考えなければならない。なぜカルヴァンの賛美歌についての警告まで持ち出して「読書」についての警告とするのか?
それはフツーのクリスチャンのわたしにとってどのような「本」を読んでいても読書は主イエス・キリストのみ言葉を戴く「お祈り」だからである。
わたしは幼いころから読んできた本の一冊一冊を使って主の主王の王主イエス・キリストが、わたしと一緒に本を読んでくださりその時その時に応じていつも「主イエス・キリストのみ言葉」を与えてくださったと胸を張って宣言できるものである。
「聖書」はすべての本の中でも中心となるわたしにとっては、わたしのいのちを創造し続けてくださる「主イエス・キリストの本」である。フツーのクリスチャンのわたしはいかに奇抜なことが、珍しいことが書かれていても興味深い本を読んでも、主イエス・キリストの御力で必ずみ言葉が与えられ、そして「主イエス・キリストの本=聖書」を読解するために役立てて下さっていることを実感し、主に感謝している。
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
↓:読書。
にほんブログ村