じいじのひとりごと

高齢者の悲哀と愚痴を綴っています
唯一の相棒、mシュナウザーのベルが残り人生を伴走してくれます

祥月命日

2010年04月30日 | 急性骨髄性白血病

今日30日は妻の祥月命日である。

娘からと息子の嫁さんからは花が送られてきた。

一周忌法要は早めの月初めに済ませている。

今日は静かに1人で仏前供養と墓参りをしようと思う。

   

早いもので一年が経ったのだなあ。

妻のことは1日として忘れたことがない。何かにつけて・・

いまだに、何かを相談したり、尋ねたりしようとして、そうだいないんだった・・。

   

何故に先に逝ってしまったのか、納得できない思いが続いた。

妻の方こそ その思いが強かったに違いない。

   

この一年間は何だか かえって気が張りつめていたような気がする。

極力だらしない生活にならないように、一人食事にも気を配り、体調も崩さないように、

どこかで妻が見ていて心配しないように、恥ずかしくないようにと・・・・・

 

肩こりが慢性化したのもそのせいかも知れない。

一区切り、これからは肩の力を抜いて生きていこうと思う。

 

1人で唱えたお経の最後の御詠歌の一説を・・ちょっと陰気くさいけどご勘弁のほど。

      

 玉とむすびて蓮葉に おきたる露の一雫 

 ながきは人の願いにて 短きものは命なり

  

 昨日ありしは今日は夢 うつつに見ゆるみ姿は

 心のなかの影にして 合わせる掌こそ真なり

Imgp0024

    

   

 

 

   

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死闘の記録

2009年07月11日 | 急性骨髄性白血病

去年の私の手帳を開いてみる。

過去の現役時代にもないほど全ページが埋まっている。

妻の急性骨髄性白血病の治療と病状記録が所狭しと書き綴られている。

   

Img0251 これは度重なる抗がん剤治療の最後とも言えるCAG療法から、その後の緩和ケアへ至る時期の、検査値や輸血など経過を記録したページの一部である。

 

2日毎の血液検査値の抜粋と連日の血小板輸血が克明に記録されている。

別に日記欄は毎日の症状や、恐れおののき、願いなど心の記録で埋まっている。

   

この妻の病状が最悪の時期に重なった夏休みには、娘が帰国して同じ病院で膵臓近傍腫瘤の手術をした。毎週岡山通い、あの時期が私にとっても最も過酷であった。

AF発作を起したりしている、よく持ちこたえたと、今しみじみ思う。

   

入院から9月の初めまでの5ヶ月間に、大学病院であらゆる治療をし尽くし、打つ手はなしといわれた。いわば治療病棟からは見放されたのである。

 

自宅療養を見越してリフォームとハウスクリーニングをしている。

自宅近くの病院に受け入れてもらい、週末だけ自宅外泊の生活になった。

   

その後実に半年間、輸血以外の治療から解放されて、穏やかであった。

多くの友人と喜んで会った。

外泊時には近場のドライブや散歩を楽しみ、衰弱してはいたが安らかで満たされた生活を送れたと思う。今となってはそれがせめてもの慰めである。

   

   

入院直前までは全く元気でいた。ふくよかな顔に病気の影すら見えなかった。

抗がん剤治療に入らなければ、好きだった旅行などもっと出来ていたのに・・・

入院し、抗がん剤治療開始とともに急速にQOLは低下し、死線をさ迷った・・・

果たしてあの過酷な抗がん剤治療は何だったのだろう・・・・

延命に繋がったのだと、そしてまた妻が自ら選んだ道なのだからと言い聞かせている・・・

だが失った者は、あれで良かったのかと後悔と疑念にさいなまれるのである。

   

急性骨髄性白血病の記録はこれで最後にする。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お知らせ

2009年05月03日 | 急性骨髄性白血病

妻は精一杯生ききって、4月30日永眠しました。

意識がなくなるまで「ありがとう」を言い続けていました。

皆様の励ましに支えられて妻も私も頑張ってこられました。

ありがとうございます。

  

供養のため、暫くの間休稿させていただきます。

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

主治医の説明

2009年04月25日 | 急性骨髄性白血病

ここ2,3日からの意識障害は、恐らくがん細胞が脳にも及んできたことによるものと。

痛み止めを飲まないでも痛みが消えているでしょう、

ある意味神様の思し召しかもしれません。 

今の状態で週末外泊は無理でしょう、外泊は患者の心が癒されてこそですから。

 

そう言われると自宅で看取ってやりたいとの思いは家族のエゴなのかもしれない。   

 

 

朦朧としながらも面会の人たちの声にはしっかりと目覚めて、一人ひとり、

「ありがとう、ありがとう・・」と何度もハグしている。

しかし、そんなときには体中の痛みも又ぶり返したように襲ってきて、

手足背中と擦って欲しいと訴えながら、もっと居て欲しいとせがむ。

そして又眠ったように意識が遠のいていく・・・・

 

私はそんな有様を見ていると鼻水が出て仕方が無い、弱いのだ・・・

だが、娘や義姉は(内心は別として) 割とさばさばとしている。

女はこんな時でもめっぽう強いと思う。

 

土曜日、息子たちが帰ってきた。

妻は病室へ来た孫の手をしっかり握って名前を呼んでいた。

息子の嫁にも息子のことを頼む、としっかり伝えていた。

妻も又女として強靭である。

 

今夜は息子が夜中付き添いしてくれる。

数日居られるとのことなので、明日からは娘と三人で三交替シフトで臨むことが出来る。

夜勤は息子に頼むつもり・・・

 

久しぶりにまとまった雨が降った。

煙突山も緑に覆われた。

0904251

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

看護師さん、ありがとう

2009年04月23日 | 急性骨髄性白血病

私や家族への負担を心配して、退院はしないとかたくなに言い張っていた妻、

それで娘と相談して今週末の外泊にあわせて、そのまま自宅療養にしようと考えていた。

 

そのことを含めて婦長さんに相談した。

説明を聞きながら、自宅で最後を看取ることは、様々な問題があることを知らされる。

自宅療養していても急変すると結局は救急車を呼び、入院していた病院へ運ばれることになる。だから出来れば昼間の長い時間付き添っていただき、夜間はお任せ下さいと。

  

今朝から急変し意識も更に低下してきて、心電図モニターで監視される。

寝台タクシーに頼まないと、今までのように乗用車での週末帰宅は無理といわれた。

  

夜遅くになって、「仕事と家事を済ませて遅くなった」と妻の職場の後輩が2人で見えて、暫く擦りながら付き添ってくれた。涙が出た。

妻の目にも涙が滲んでいた。

  

今夜は夜間も付いて居てやりたいが、自分の体力も勘案して夜遅く帰宅した。

病棟看護師さんも夜勤の忙しい中、精一杯の看護を施してくれている。

優しい声かけ、心遣い、予想以上の力仕事・・・看護師さん、本当にありがとう。

  

妻も信頼される看護師であり続けてきた。改めて褒めてやりたい。

09041911

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

洗濯日和

2009年04月22日 | 急性骨髄性白血病

Imgp4038 先日の強風で桜の木に居残っていたガクが綺麗さっぱりと洗われた。

日毎に若葉が広がり、緑陰が爽やかになってくる。

洗濯物も自然の陽ざしと風がやっぱり一番、室内干しと違い気持ちよく乾く。(写真は一寸お見苦しいが)

  

  

妻は食が極端に落ちてきた。

相変わらずスイカとメロンとミニトマトだけだが、その摂取量も僅かになった。

衰弱がひどくなり、痛みは無いものの身の置き所がないほど“しんどい”と言う。

  

本人はうつらうつらと眠っていながらも、誰かが傍にいて腕や脚を擦ってくれていると安心できるという。相手かまわず擦って、と頼んでいる。

 

今日も友人が入れ替わり来てくれては1時間、2時間と手を擦り続けてくれていた。

二人連れで見えた友人は、妻が眠っていても勝手におしゃべりしながら両手を擦り続けてくれていたようです。女友達はいいですね。

 

私などは10分も擦っていて、妻が眠ったのを見届けると止めてしまうことが多い。

男は概してそんなもの・・・いや愛情が欠けている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何とかしたい

2009年04月21日 | 急性骨髄性白血病

妻を退院させて、これからの時間を自宅で過ごさせたいと思っている。

そのことをここ何度か妻に問うてきた。

 

今迄は「病院の方がいい」ということだったが、

今日も更に話しかけると、

  

「本当はね、家に帰りたいのよ、家で過ごしたい。

でもね、最近は夜中に何度か看護師さんにトイレを介助してもらっているのよ。

ナースコールには頼めるけど、お父さんには無理でしょう。それこそ共倒れになってしまう・・・」

 

そう言われてハタ とひるんでしまった。

私も睡眠薬なしでは眠れず、飲んで眠ると5時間ほどは起きられない。

自分のトイレに起きた時もふらつく始末だ・・・

ナースコールのように即対応する自信がないことに気づかされた。

妻は朦朧とした意識の中で私のことを心配していたのだった。

   

娘に相談する

「私が出来るよ、お母さんの希望に沿ってあげようよ」

その娘も腰痛で不安がある身・・・

  

輸血や緊急時のこともあり、家族の受け入れ体制だけでなく病院側の対応も詳しく聞いて決めよう。生易しいことではない。

 

今日の煙突山  

0904211

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スイカの栄養

2009年04月19日 | 急性骨髄性白血病

前に妻の主食はスイカ・・と書いたらお見舞いにスイカやメロンをいただく事になった。

何だか催促したようで心苦しい限りですが、ありがたいととても喜んでいます。

 

もう二週間以上、今も妻はスイカとメロンとミニトマトだけで体を維持している。

昨夜、せめて家では、と果物の後でご飯を一口食べたら、途端にせっかく食べたものをすっかり吐いてしまった。

食前にナウゼリンという制吐剤を服用していたのだが、もう普通の食事は受け付けないのか・・・

  

これではスイカに頼るしかない。

スイカもメロンもトマトも糖分や水分が豊富、ビタミン、ミネラルも含まれているし、Kが多く利尿効果もあるというから、体力の衰えた病人には意外に適しているのかもしれない。例のリコピンも含まれているというし・・・。

しかし明らかに脂肪・タンパク質が欠乏しているのは否めない。

    

昨日の夕方、少し気分が良かったので、伸びた髪を自前でカットしてやった。

娘が買ってきた100均のスキばさみも初回ならでは、十分使えた。

その後シャワーも使えて、すっきりしたと喜んだ。

先週は病院でのシャワーも出来ず、清拭に頼んでいたのだ。

 

 

携帯はいまや命綱である。

病室との連絡はもとより、

自宅内でも二階に居たりする私への連絡に携帯を使うことがある。

妻との連絡会話以外にはほとんど使うことの無い携帯である。

    

先日の転倒以来、歩行には介助が欠かせなくなった。

相変わらず眠りの時間が長い。

  

今日も初夏の暑だった。芽吹きから赤い葉のモミジ

Imgp0024

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今週も帰れたが

2009年04月18日 | 急性骨髄性白血病

車椅子を借りてきたものの、それは病室から車までで、

我が家の車庫から玄関までは多くの段差があって使えない。

さりとて室内もバリアフリーになっていなくて、まともに使えない。(トランクに積んだまま)

娘と2人掛かりで両脇を抱えてベッドまで移動すると、倒れこむように横になった。

  

天気が良ければ車椅子で散歩でも、と思っていたが、今回はそれどころではない様子。

熱は無いが、「体が抜けるようにしんどい」と横になったままで、痛み止めのレスキューを飲み、眠り続けた。

  

0904182 それでも、「病院よりずっといいよ、いつも皆んなが傍にいてくれるもの」

時折、孫達がきて腕を擦ってくれたり、賑やかに喋ったりするのを目を閉じて聞いている。

聞いているのか眠っているのかわからないが、顔つきは穏やか。馴れ親しんだ家具や藍の食器類などに囲まれて心安らぐのであろうか。

   

初夏の陽気であった。

Imgp0009

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

例え骨折でも

2009年04月14日 | 急性骨髄性白血病

昨日病院で転倒した妻、頭部打撲でそれも比較的軽度で済んだと思っていたら、

昨夜から大腿部が大きく脹れあがってきた。

頭のリカバリーに集中していてこちらの打撲を見逃していた。

鎮痛剤の切れた夜間に痛み始め、レスキューを頻繁に飲んだという。

  

自分では、「こんなに脹れあがるのは骨折(いわゆるヒビ)に違いない、「CTで確かめて・・・」と訴える。経験からの言で外れていないと思う。

    

だが、主治医は「例え骨折だとしても今は治療が出来ないのです、痛みを抑えるだけです。

とにかく発熱の兆候が無いかにだけ留意して・・・・」納得するしかない。

  

こんなケースでも強オピオイド(モルヒネ)は鎮痛効果があって痛みを抑える。

多少歩くことさえ出来るのに驚く。

マヤ文明の時代から、瀕死の怪我に麻薬が使われたそうである。

がん性疼痛時に医学的に用いられれば中毒はないことが証明されている。

 

 

だんだんと体の自由がきかなくなってきた。

気丈だった妻は、私か娘に出来るだけ長く傍にいて欲しい、と言うようになった。

意思にかかわらず介護に頼むことになり、次第に心細くなってきている。

  

医師も看護スタッフも状況に応じて最大限の心配りと看護介護に当たってくれている。

ありがたいと感謝している。

0904105

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする