Edward Steichen "The Spiral Shell", 1921. France.
このスパイラル・シェルの写真は、1963年に84歳のエドワード・スタイケンが出版した本(A Life in Photograph)の表紙に使われています。 多分スタイケン自身の一番のお気に入りの一つだと思います。 エドワード・ウェストンの光をすき通す様な繊細で優雅な貝の写真は英語の単語"fragile"がピッタリ合いそうですが、スタイケンの硬くて重そうな貝はまるで南部鉄びんのようで貝の持つ時間の重みまで含めて表現されているように感じます。
Edward Steichen、"To my mother Marie Kemp Steichen, 1854-1933, with homage, gratitude, respect, admiration, and love."
エドワード・スタイケンは、彼の母親からの影響が強くあったと彼自身語っています。 スタイケンの家族は彼がまだ3歳の時、若いスタイケンを自由で平等そして好機の土地で育てようと、ルクセンブルグから1881年アメリカに移ってきます。
Edward Steichen、"Self Portrait", 1898. Milwaukee. Platinum print.
スタイケンの父親は、ミシガン州ハンコックの銅山で働いていましたが健康を害し母親がMillinery Shopを開いて生計をたてます。 ミリネリイ(millinery)と言う耳慣れリい単語が出てきたので辞書を引くと、やや古語らしく婦人帽子類(販売製造業)とあった。 1889年に一家はウィスコンシン州ミルウォーキーに移ります。 (ビールの世界三大生産地「ミュンヘン、サッポロ、ミルウォーキー」と言う昔の宣伝文句を思い出した、語呂合わせがよいのでツイ覚えてしまっていた。)
Edward Steichen, "Self Portrait with Sister" 1900. Milwaukee. Platinum print.
スタイケンが15歳の時に学校を止めリソグラフ工房(American Fine Art Company of Milwaukee)で4年間の実習生(Lithography apprenticeship)になり、会社の近くにあったフレンドリイなカメラ・ショップでスタイケンが16歳の時に初めてお金を母親からもらって中古のカメラを手に入れました。 最初のロール・フィルム50枚の中、写っていたのはたった一枚だけでした。 スタイケンはそのことに関して父親は絶望的でしたが、妹のリリアン(Lilian)がピアノに向かったその一枚の写真はとても素晴らしく49枚失敗の価値があると母親は褒めてくれたとふり返っています。 この写真のオシャレな帽子もお母さんの手作りでしょう。 同じく1896年にミルウォーキー・アート・スチューデント・リーグ(Milwaukee Art Students League)を発足、創始者の一人でリーグのプレジデントになりました。
Gertrude Kasebier, "Portrait of Edward Steichen Wearing an Overcoat and Gloves", 1901.
Platinum print. The Museum of Modern Art, New York. Gift of Knox Burger.
ティーン・エージャーのスタイケンは写真が創り上げるイメージにおいて光の重要性に気がついていました、黄昏時(たそがれどき、Twilight)の与える不思議なムード、そして常に変化し続ける光とそのミステリーな影の作り出す感情的なもの、場所、事物、人の本質が与える感情を写真の目標にした、気がつかない印象派と語っています。 1899年にスタイケンの作品が初めてフィラデルフィアの写真サロンで展示さ、1900年(明治33年)には、アメリカの市民権を得て3年後にクララ・スミス(Clara Smith)と結婚し二人の娘キャサリン(Katherine)とメアリー(Mary)がいます。
Edward Steichen, "The Little Round Mirror", 1901.(printed 1905)
当時はソフト・フォーカスの絵画風写真が主流でしたが、タイトルがなければ見逃してしまいそうな「小さな丸い鏡」、最初の自画像の写真にも小さな長方形の額縁が壁に掛けてありました。 この繊細な感覚でのバランスと構図がスタイケンの写真の魅力の一つのように思えます。
彼は三脚の足を揺らしてカメラを振動させたり、レンズを水で濡らしてボカシをだしたりして撮影段階での工夫のみならず現像の段階でもシルバーとプラチナ・ペーパー以外にも印画紙のコーティングの素材を変えてみたりして色々と工夫を続けた様です。
Alfred Stieglitz Collection, 1907. Platinum print. The Metropolitan Museum of Art. New York.
"Frank Eugene, Stieglitz, Kuehn, and Steichen Admiring the Work of Eugene".
リソ・ショップで4年間続いた研修期間が終わり収入も悪くないときにヨーロッパ行きを決意します。
見習い期間を終えたスタイケンは、週50ドルの収入があったそうですから当時としてはかなりの高給でしょう。 ヨーロッパ行きを家族に話すと父親はクレイジーだと思いますが母親が旅費を援助して21歳を迎えた数週間後にリーグの友人とパリに出発します。
1900年にスタイケンは、ニューヨーク経由でパリにいきますが、その時にクリアレンス・ホワイトの紹介でアルフレッド・スティグリッツにニューヨークで会っています。 スティグリッツは、盗んでいるようで申し訳ないといいながら一枚5ドルで三枚スタイケンの写真を買ってくれました。 スタイケンはパリに行くけれど写真は続けるとスティグリッツに約束したのです。