只、チョコレ-トヒル自体 は見ても大して面白いとは思わなかった。 カッパドキア程の奇観でもなく、 ただの小さな山がそこら中にぞろぞろ見えるだけだ。 勿論、自分のいる場所そのものが、ヒルの一つなのだが、 その場所に立ってとても不思議に思えたのは、セミの鳴き声が下界の至る所から聞こえていたことだ。ロボックや、あるいはセビリヤ村でもセミの鳴き声は一切聞かれなかったのに、チョコレ-トヒルではセミの大合唱だった。 この画像の全体からセミの大合唱が沸き上がっている。セミなど熱帯のどこにでもいそうな気がするが、違うのだろう、というか、明らかに違うと思われた。
ただ、その時の画像をよく見ると、特定のヒルの一つのそばに駐車場があって、車が何台も止まっている。 だから、そこに行けば、ヒルに登る感覚は味わえるのだろうと思う。多分、駐車場代が入場料の代わりになるのだろうが。
フィリピンはカトリックの国なので、マリア像は普通どこにでも見られる。ここの急な階段も例外ではなく、マリア像の祠が岩の中に閉じ込められて造られているのが目を引いた。 マリア像の祠だけではなく、巨大な十字架が近くの山の上にも見られるのを思い出している。 で、この時点でターシャとチョコレ-トヒルというボホ-ル島のガイドブックが勧める観光の目玉は見終わってしまったことになる。
初めての土地なので、見るもの、聞くものはすべて珍しいわけだから、ボホ-ル島体験が終わってしまった訳では決してなかったけれども、これだけか、というような一定の喪失感はあったと思う。特に、チョコレ-トヒルの場合、遠くから見るだけで、触れるたわけでもないし、ただ、来た、見た、とだけしか思わなかった。
異国の地に行く最大の理由は、結局物珍しさだと思う。が、単なる景色はつまらない。
例えば、2015年2月に初めてのボルネオでキナバル山に登ったが、 単に見るだけではとてもつまらなかっただろう。その1年後に車で何度も近くを通りかかる機会があったが、山頂を見ながら、岩場のロ-プが水分を含んで重かったとか、未明の足元の氷の事や、ガイドや他の国の登山者とのやり取りとか、思い出すたびに体験が甦ってくる満足感が絶えずあった。この画像はふもとのパインリゾ-トというホテルの駐車場から撮ったものだ。
この年の5月に大きな地震があり、シンガポ-ルの学生を中心に20人ほどが岩に押しつぶされたり、落石に当たって死亡したが、途中の巨大で不安定そうな岩を見て、心配だと言ったら、ガイドはボルネオには地震がないので心配要らないと言っていたのを思い出す。
異国の地で具体的に何が心の定常状態を破るかは異なるし、行ってみるまでは判らない。だからそもそも行くのだし、見るだけでなく、実際に触る体験出が来るものの数が多いほど訪れる価値はある。
ボホ-ルで定番のタ-シャ保護区やチョコレ-トヒルが物足りない感じがしたのは、見るだけで終わってしまった、と素朴に感じたからだと思う。
ガイドブック等に頼らないで、訪れてみたい場所を探す方法を整理してみたら、結局地図に頼るのだが、二つあると思う。一つは直感的な方法で、地図を見て「ここに行ったら何があるのだろう、よし、行ってみよう」と思って、何が何でも実行することだ。もう一つは、今まで気が付かなかったグ-グルマップの積極的な活用方法にある。