パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

☆ 死刑廃止を考える本

2024年12月18日 | 人権

  =レイバーネット日本『週刊 本の発見・第369回』=
 ☆ なぜ「廃止派」に変わったのか?
   『死刑について』(平野啓一郎 著、岩波書店、1200円) 評者:大西赤人

 以前の大西は、SNS――Twitter(現・X)やFacebook――に気軽に書き込んでいたのだが、最近では、誰の発言に関しても本来の意図を汲み取らない荒れた反応が向けられる状況が恐いので、ほぼ眺めるだけになっている。
 そんな中、先日も大変驚かされる光景を眼にした。Facebookには「友達」以外の全く知らない人や団体の書き込みも流れてくるけれども、そんな中に、江戸時代の処刑法――とりわけ残酷な死刑の模様を当時の絵図で紹介している投稿があった。そのアカウントにおける他の投稿にはごく僅かしかコメントが付いていないのに、これに関してはヤケに多くの人が反応していた。

「過去のこういった処罰を、今こそ現代の日本には必要」
「くだらないNPO連中が、罪人にも人権があるなどほざいているが、人権を無視した奴が人権を語り、馬鹿な政治家も賛同する」
「他人が他人を裁くなど以ての外! 裁量は、親族に」
「むごたらしい手段で人を死に追いやった犯人の人権なんてその時点で無いも同然」
「飯塚幸三【母娘二名が死亡した池袋暴走事故の加害者】にこれ使ってやれば親子も報われたのに」
「何か言うと『収監されている受刑者の人権を蔑ろにするなぁーッ!人権を守れぇーッ!』と騒ぐことで益を得る輩がそれを目当てに大騒ぎするんですよ」

 本名はもちろん、帰属や背景も明示されているFacebookでさえ、冷静な見解は限られ、このような罵詈雑言の嵐である。
 ましてや匿名のSNSとなれば、歯止めがなくなることは容易に想像がつく。

 先頃数年ぶりに会って食事をした知人から、〝ちょうど読み終ったところなんだ〟とこの『死刑について』を譲られた。
 緩やかに組まれた130ページほどの軽い本ながら、その装いとは裏腹に、ストレートな題名が示す通り、現代人にとって不変の課題とも言うべき極めて重いテーマが扱われている。
 本書は、社会的案件に向けて積極的に発信する平野が、大阪弁護士会主催の講演会、日本弁護士連合会主催のシンポジウムなどで行なった発言を再構成し、大幅に加筆・修正した一冊である。

 筆者は、冒頭でこう記す。

僕は、死刑制度は廃止すべきだと考えています『廃止派』です。しかし、最初からそうした立場だったわけではありません。
 二十代後半までは、どちらかというと、死刑制度を必要と考える『存置派』に近い考えを持っていました。当時、存置派と廃止派という対立する立場で理解していたわけではありませんが、死刑制度があることはやむを得ないと考えていました」

 そして平野は、大学時代に死刑廃止派の友人と激しく議論をしたが、相手が死刑制度に反対する様々な理由を聞いても、「何一つ説得されることはありませんでした」と述べる。
 では、そんな彼が、なぜ「廃止派」に変わったのか?――本書には、その経緯も記されている。

 平野は、死刑の是非を論じる前提として、「なぜ人を殺してはいけないのか」との原初的な命題を掲げる。
 基本的人権を考え、憲法を造り、立憲主義に基づき人を殺し得ない社会においては、殺人は〝法律で、憲法で禁じられているから〟許されないというこれもまたむしろ原初的な理由を示す。
 また、警察による捜査の実態を知って批判を覚えたことから、冤罪により死刑が執行されるという取り返しのつかない恐怖を示す。
 あるいは、加害者のみの「責任」を追及し、社会の罪を問わない怠慢を指摘し、加えて、「死刑」を許容することで、「人を殺してはいけない」という絶対の規範に例外を設けるべきではないとする。

 これらの見解はいずれも真っ当であり、大西としても異論を唱えるところはない。ただし、あえて言うならば、それでは仮に、

「人を殺してもよろしい」という憲法が出来てしまったらどうなのか?
冤罪のない正当・精密な捜査が徹底されるとしたらどうなのか?
社会の側も十分に反省したらどうなのか?

 ――もちろん、そんな事はまずあり得ないという常識は踏まえながらも――いまひとつ納得しきれないわだかまりは残る。
 突き詰めると、平野は、心情的には未だ存置派に傾きかねない自分自身をも戒め、何とか廃止派の一翼に連なりつづけるべく理論武装を試みているようにも見える。

 先のFacebookでも中傷的に言及されていた飯塚幸三受刑者(禁錮五年)は、先頃、刑務所内で老衰のため死亡した。93歳だったという。
 亡くなった被害者母娘の夫であり父親であった松永拓也氏は、加害者の死を知り、自身のXに

「心よりご冥福をお祈りいたします」
『天国で真菜と莉子に会えたなら一言謝ってほしい』という思いはあります。しかし、それ以上に強い感情は抱いていません

 などと書き込んだ。
 これらの言葉に対しては、家族の命を奪った人間が「天国」へ行くことを想定している寛容な姿勢に驚きや称賛が寄せられる一方、〝飯塚が天国に行けるわけがない〟〝飯塚は地獄行きだから御家族には会えません〟というような――松永氏の想いを足蹴にするごとき――コメントも並んでいた。
 当然ながら意図的な殺人と過失致死とでは大きく性質が異なるとはいえ、この松永氏のコメントは、死刑という刑罰のあり方に対しても、重いアンチテーゼとなるものではなかろうか。

『レイバーネット日本』(2024/12/5)
http://www.labornetjp.org/news/2024/hon369

 


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