『笛物語』

音楽、フルート、奏法の気付き
    そして
  日々の出来事など

フルート奏者・白川真理

気付き  引導

2022-01-09 18:03:38 | 気付き
昨年、12月30日、生徒さんと私の都合がここしか合わず、年末ぎりぎりのレッスンだったのですが、その日にここのところちょっとない程の大変革があったので、覚書のため、メモ。

これは、実際ああしてこうして、というよりも、むしろ感じ方、考え方、思い方、といった内側のブラックボックスに作用する技法でもあるので、一般的ではないとは思うものの、私の生徒さん達には有効だったので、私だけの思い込みだけでやっていることでないことは確か。

こうして言葉にすればするほど、所謂エビデンスのなさが露呈し、怪しくなるのだけれど、まあ、通じる方には通じると思う。

きっかけは、陽紀先生の個別講座でお教えいただいた「剣体」ならぬ「フルート体」。

フルートを取り扱う主体を自身の身体ではなく、フルートという道具も最早自身の身体の一部として取り扱うための稽古法、そして考え方。

基本は「末端から動く」。

これに関しては、2013年、甲野善紀先生と出会ってすぐに、お教えいただいていた身体操法だ。

古の伝書『願立剣術物語』にも、そのことは記されている。

『引導ということ肝要なり』

解釈は様々で、色々とあるだろうけれど。



この「指先」を「ではどこが指先なのか?」と具体的に考え抜かれたのが陽紀先生。

そして道具込みの場合の末端は何処になるのか、ということを。

これがメウロコだった。

これによって、年末の家事や編み物が画期的に変化した。

そして30日のレッスン中、生徒さんの様子を見て、ふと思いついたことが、これらと一致。

つまり「私」が主体となることで、様々な力みや居つきが生じ、それが多くのことを邪魔している、ということが、何故か急に腑に落ちた。

「自分が抜けて、第二の他の自分がやる。『我ならざる我』が発動する」

という甲野先生の教えは、もうここ何年にも渡って音楽家講座でも常に仰っていられるが、「まあ、達人にはそういうこともあるのだろうなあ・・」という感じてしか受け止めることができなかった。

それが、この「フルート体」となることで、この教えの入口にようやく立てた心地が。

末端は主体から一番離れているし。

というかなり即物的な感覚ではあるのだけれど、実際不思議なくらいに変化する。

「自分が抜ける」を生まれて初めて味わえた・・・かも?

「我以外みな我が師」

というあまりにもベタで、口にするのもちょっと恥ずかしくなるような教えがあるけれど、本当にそうだったのだなあ、と改めて感じた次第。

師は人とは限らず、フルート等の、取り扱う道具もまた師、ということである。

この『師』に導かれて、すらすらと行けばよい。

写真は 朝、雪が解け始めた庭。