専門誌『ザ・フルート』(アルソ出版社)Vol.181 6月号 (4月10日発売)
にカラー4ページで、取り上げていただきました。
3ページの記事と4ページ目には『水月・浮雲』のフライヤーが。
28日にリリース予定のCD『エーテルブルー』のこと、昨年末に発刊されたオリジナル作品『水月・浮雲』のこと、ルイ・ロットとも出会いのこと。
そして川崎優先生、共演者のみなさまのことなどなど・・
字数制限の中、語り切れなかったことも沢山ですが、良い記事にまとめてくださいました。
しばらくしたらアルソのWebサイトでも掲載されるそうなので、また後日ご案内させていただきます。
甲野善紀先生との出会いを喜んでくださって、「君はいいことやっているよ。これはフルートにも、そして世の中の役に立つことだから、がんばりなさい。」
と、アルソ出版社を紹介してくださったのが川崎優先生。
先生のお陰で、やや特殊なともすれば異端ともいえるような、「古武術に学ぶフルート」の連載もかつて持つことができたし、それに先立っての最初の企画として、甲野先生との対談掲載、というのもあった。
その後、コンサートレビューなどでも、よく取り上げてくださっていたけれど、私が誌面に登場するのは、たいがい「古武術奏法」関係でだった。
でも、今回初めてといってよいくらい?音楽、フルート中心の記事。
ヘンな話ですが、ちょっと感慨深いものがある。
音楽家講座に参加される若い世代の方から質問された折に、よく言っているのは
「確かに、甲野先生の術理の応用は、とても効果があるし、魅力的だし、実際、自身の奏法も面白いように進化します。でも、それはあくまでも手段の一つである、ということを忘れないようにしてください。音楽のためにやっているのだから。まず音楽家であるということを忘れないで。」
これは、ずっと師である植村泰一先生が仰り続けてくださっていた言葉でもある。
「手段と目的を取り違えないように。これは油断するとすぐにすり替わっちゃうからね。」
実際、手段の追求はとても面白いので、これだけで満足してしまいそうになることも多い。
もちろん、こうした身体操法により魅力を感じて、そちらの専門家になりたい、というのも一つの選択かもしれないけれど、そうでないのなら、やはり自身の軸を見失わないようにしないとね。
今回は、編集者サイドでも、古武術奏法に関しては一切質問もなく、私もそれをごく当たり前のように感じて話していたことに、原稿が出来てから気が付いた。
もちろん、今の私の音楽の礎となっているのは、この古武術奏法ではあるけれど、もう自分では特別な事、と思わなくなっているのだなあ、とこれまた感慨深い。
それだけ、もう当たり前に、血肉になってきている、ということなのかな、と。
一般書店にはあまり並んでいないかと思いますが、楽器店の書籍売り場には大概あるので、おついでの折に手に取っていただけると嬉しいです。
にカラー4ページで、取り上げていただきました。
3ページの記事と4ページ目には『水月・浮雲』のフライヤーが。
28日にリリース予定のCD『エーテルブルー』のこと、昨年末に発刊されたオリジナル作品『水月・浮雲』のこと、ルイ・ロットとも出会いのこと。
そして川崎優先生、共演者のみなさまのことなどなど・・
字数制限の中、語り切れなかったことも沢山ですが、良い記事にまとめてくださいました。
しばらくしたらアルソのWebサイトでも掲載されるそうなので、また後日ご案内させていただきます。
甲野善紀先生との出会いを喜んでくださって、「君はいいことやっているよ。これはフルートにも、そして世の中の役に立つことだから、がんばりなさい。」
と、アルソ出版社を紹介してくださったのが川崎優先生。
先生のお陰で、やや特殊なともすれば異端ともいえるような、「古武術に学ぶフルート」の連載もかつて持つことができたし、それに先立っての最初の企画として、甲野先生との対談掲載、というのもあった。
その後、コンサートレビューなどでも、よく取り上げてくださっていたけれど、私が誌面に登場するのは、たいがい「古武術奏法」関係でだった。
でも、今回初めてといってよいくらい?音楽、フルート中心の記事。
ヘンな話ですが、ちょっと感慨深いものがある。
音楽家講座に参加される若い世代の方から質問された折に、よく言っているのは
「確かに、甲野先生の術理の応用は、とても効果があるし、魅力的だし、実際、自身の奏法も面白いように進化します。でも、それはあくまでも手段の一つである、ということを忘れないようにしてください。音楽のためにやっているのだから。まず音楽家であるということを忘れないで。」
これは、ずっと師である植村泰一先生が仰り続けてくださっていた言葉でもある。
「手段と目的を取り違えないように。これは油断するとすぐにすり替わっちゃうからね。」
実際、手段の追求はとても面白いので、これだけで満足してしまいそうになることも多い。
もちろん、こうした身体操法により魅力を感じて、そちらの専門家になりたい、というのも一つの選択かもしれないけれど、そうでないのなら、やはり自身の軸を見失わないようにしないとね。
今回は、編集者サイドでも、古武術奏法に関しては一切質問もなく、私もそれをごく当たり前のように感じて話していたことに、原稿が出来てから気が付いた。
もちろん、今の私の音楽の礎となっているのは、この古武術奏法ではあるけれど、もう自分では特別な事、と思わなくなっているのだなあ、とこれまた感慨深い。
それだけ、もう当たり前に、血肉になってきている、ということなのかな、と。
一般書店にはあまり並んでいないかと思いますが、楽器店の書籍売り場には大概あるので、おついでの折に手に取っていただけると嬉しいです。