何も求めないけれど、神様がここに生きていらっしゃる。神は総(すべ)ての総てであるから既に自分には総てが備わっているのだ。自分は幸福であるより仕方がない、自分の周囲には有難いことしか起りようがない、自分の一挙手一投足、一刻一瞬は神の営みであると感じられる心境に達するのであります。
その心境を呼び出す歌が第三首の招神歌『わが業(わざ)はわが為すに非ず、天地を貫きて生くる御親神(みおや)の権能(ちから)』であります。自分が為すのは、神が為し給うのだと云う心境です。神我一体です。
神我一体となるためには、『我』と云うものがあって、『神』と対立していて、この二つが結びつくのでは駄目です。自分を全然、神にまで自己滅却して、神への無条件降伏をなしたとき、進駐軍が入ってくるように神が入って来て、神のみになってしまってそのときに出て来る『我は全智全能で何でも出来る』と云う大きな自覚こそ本当であり、『我』が残っていて『我は全智全能だ、何でも出来る』と考えたら増上慢(ぞうじょうまん)であります。
だから、吾らの祈りは『神の生命を吾に流れ入らしめ給え、吾に神の生命を、智慧(ちえ)を、愛を実現せしめ給え。私の一挙手一投足が、神様、あなたの生命の実現でありますように』と云うようでなければならない。
此の無我の祈りを繰返しているうちに、『神我れに宿り給うて我れとして神のみ業(わざ)を為さしめ給う』と云う自覚が出て来て、神と全く和解した心境になるのであります。
神と対立している間は、神に対してまだ本当に和解していないのであります。神への無条件降伏による神への全的和解の行事が神想観なのであります。
第四首目の『天地(あめつち)のみ親の道を伝えんと生(あ)れましし、生長の家の大神護りませ』は、神想観実修の途中の心境中、悪霊の憑依(ひょうい)などの障礙(しょうがい)の起らないように生長の家の神様の御降臨を願う歌であります。