メディテーションにとって次に必要な根本的法則は、肉体的及び感情の緊張を脱落させることであって、これを道元禅師は「身心(しんじん)脱落・脱落身心」と云う語で表現されたのであります。これも最初から完全に行われるにはきまっていないのであります。それは坐禅をやってみた人々の経験によって明らかであります。
スター・デーリーは次のように謂(い)う ー
「メディテーションは易々加減(いいかげん)に出来るものではないのである。それは世界中の芸術中の最大の芸術である。だから、それを実修する人に極度のきびしい鍛錬(たんれん)が課せられるのである。
仮借(かしゃく)なき自己の性格に対する自己批判と懺悔(ざんげ)が必要なのは言うまでもないが、この芸術を完成せずには置かないと云う決意と、忍耐と失敗につぐ失敗や、もうどうしたら好(よ)いかわからない杜惑(とまど)いにも屈せずに、どこどこまでもやり遂げる“精進努力”と謂(い)う価いを払うということなしには、その“手ほどき”さえも得られないのである。
メディテーションの深い境地に於いては、人は“自分自身”に直接対面するのである。
安光(やすびか)りの安価なニセ物の自分が露呈せられる。善良なクリスチャンにありがちな極内密(ごくないみつ)の虚栄心のニセモノがニセモノ中の最も恐ろしいニセモノとして浮び上って来る。
今まで平気で語ったゴシップが恰(あたか)も殺人罪の如く思われて来る。今まで思わず口をついて出た人の悪口がガラガラ蛇のように恐ろしいものに思われてくる。
告げ口することが恰(あたか)もジャーコール狼の出現のように見えて来る。そして人を審判(さば)くことは恰(あたか)も夜襲うて来るハイエナのように見えて来る。」と言っている。
こうして自己批判が徹底して今までの自分の行為や心境に直接対面してそれらが徹底的に否定され懺悔(ざんげ)されて来るのでなければならないのであります。
つまり神想観で実相を完全に観じるようになるまでに、私たちは浄瑠璃(じょうるり)の鏡の前に立ったように心を静めて自己の過去の心の汚れを徹底的に浄化して置くことが必要であるのであります。