☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

神想観の諸段階とその功徳(3)

2013-09-15 20:35:49 | 今日の言葉

メディテーションにとって次に必要な根本的法則は、肉体的及び感情の緊張を脱落させることであって、これを道元禅師は「身心(しんじん)脱落・脱落身心」と云う語で表現されたのであります。これも最初から完全に行われるにはきまっていないのであります。それは坐禅をやってみた人々の経験によって明らかであります。


スター・デーリーは次のように謂(い)う ー

「メディテーションは易々加減(いいかげん)に出来るものではないのである。それは世界中の芸術中の最大の芸術である。だから、それを実修する人に極度のきびしい鍛錬(たんれん)が課せられるのである。


仮借(かしゃく)なき自己の性格に対する自己批判と懺悔(ざんげ)が必要なのは言うまでもないが、この芸術を完成せずには置かないと云う決意と、忍耐と失敗につぐ失敗や、もうどうしたら好(よ)いかわからない杜惑(とまど)いにも屈せずに、どこどこまでもやり遂げる“精進努力”と謂(い)う価いを払うということなしには、その“手ほどき”さえも得られないのである。


メディテーションの深い境地に於いては、人は“自分自身”に直接対面するのである。

安光(やすびか)りの安価なニセ物の自分が露呈せられる。善良なクリスチャンにありがちな極内密(ごくないみつ)の虚栄心のニセモノがニセモノ中の最も恐ろしいニセモノとして浮び上って来る。

今まで平気で語ったゴシップが恰(あたか)も殺人罪の如く思われて来る。今まで思わず口をついて出た人の悪口がガラガラ蛇のように恐ろしいものに思われてくる。

告げ口することが恰(あたか)もジャーコール狼の出現のように見えて来る。そして人を審判(さば)くことは恰(あたか)も夜襲うて来るハイエナのように見えて来る。」と言っている。



こうして自己批判が徹底して今までの自分の行為や心境に直接対面してそれらが徹底的に否定され懺悔(ざんげ)されて来るのでなければならないのであります。


つまり神想観で実相を完全に観じるようになるまでに、私たちは浄瑠璃(じょうるり)の鏡の前に立ったように心を静めて自己の過去の心の汚れを徹底的に浄化して置くことが必要であるのであります。







神想観の諸段階とその功徳(2)

2013-09-15 20:35:30 | 今日の言葉

最初の「決意」と言うのは、「吾れ神想観をなす。これを為し終らざれば一歩も退かず」と云う決意をなすことが必要なのである。聖書にイエスが“神の子”の悟りに入(い)り給うたときに、「四十日、四十夜、断食して、後に飢えたもう。試(こころ)むる者きたりて言う、

『なんじ若(も)し神の子ならば命じて此等の石をパンと為らしめよ』答えて言い給う『人の生くるはパンのみに由(よ)るにあらず、神の口より出(い)づる凡(すべ)ての言(ことば)に由る』と録(しる)されたり」とあるのは、

イエスが徹底的に神想観をなそうと云う決意の示しがあらわれているのだと言わなければならないのであります。

「四十日四十夜断食して後に飢えたもう」と云うのは四十日四十夜断食して神想観をした後に、飢餓感が甚(はなは)だしくなったという意味であります。「飢えたもう」と云うのは必ずしも“腹が減った”と云うような軽い意味ではありますまい。

たんに腹が減るだけなら、一二日断食しても腹は減っているのです。だからこの場合の「飢え給う」は、たまらないほど飢餓感が激しくなったことであります。

その時にサタンが出て来て、「お前はそんなに神の子だったら、此(こ)の石をパンとして食べたらどうですか」と言ったというのである。

併(しか)しイエスは「唯今(ただいま)、神想観中」と言うわけで、「神の口より出づる言葉を今受けつつあるのである」とて、そのような肉体的飢餓感の誘惑を退けて、「神の言葉」を念じつづけたのであります。


次回に続く・・・

神想観の諸段階とその功徳(1)

2013-09-15 20:35:09 | 今日の言葉

『生長の家』誌昭和三十四年八月号より  谷口雅春先生


生長の家の誌友は是非とも神想観を怠(おこた)ってはなりません。

スター・デーリーは斯(こ)う言っています。
「禅定(ぜんじょう)的神想観(Meditation)は若(も)しきわめて完全に行われたならば、それは一種の芸術と謂(い)い得るであろう。

それは音楽や絵画の如く必ずしも特殊の形式に執(とら)われる必要はないのであるが、すべて美が形として表現されるときには、それぞれの根本的法則があるように、

メディテーションを行うにも一定の法則があり、その法則が完全に行われるときには、意識の高揚を体験することができるのである。」
このようにスター・デーリーは言って、その根本法則を次の七つの段階に分けて示しています ー

一、決意。

二、心身を放下すること。(緊張を解くこと)

三、精神を本尊に集中すること。

(デーリーはCentralizationという語をつかって次の“精神統一”と区別している。彼は瞑目(めいもく)中の眼球を上目附(うわめつき)に額(ひたい)の上方を視(み)つめるつもりでキリストの姿を描いて、それに精神を一点に集中するのである)

四、精神統一。

(Concentrationである。精神集中が一層強力となり純化されて、一切の雑念が消える状態である。目の裏が蒼空(あおぞら)のような感じとなる)

五、祈りの言葉の黙念。

(本尊に対して欲する事物を念ずる)

六、欲する事物の成就せる有様を持続的に瞑想する。

七、既に成就せりとの強烈な自覚。




神想観の祈りと米国光明思想(5)

2013-09-15 00:00:53 | 今日の言葉

アメリカ式の物の考え方はハッキリしているのであります。


もう一つ『喜んで価を払う』べきは、自分が教えを受けてお陰を受けたならば、そのお陰を人に伝えて教えを弘(ひろ)め、その喜びと教えとを人にも頒(わ)け与えると云うことが『価を払う』ことだと云っています。


信仰の用語も、ビジネスの用語も、『価(プライス)を払(ペイ)する』と云うので、米人式な歯に衣(きぬ)着せぬ朗かな云い方で直截簡明(ちょくせつかんめい)なあけっぱなしの国民性をあらわしていて好いと思います。


生長の家では、神様は罰を当てないと云っている。これはクリスチャン・サイエンスと同じことである。併(しか)し罰は無いとしたらお陰を受けたらお陰の取り徳にして置いた方が得ではないかと思う人が出来る。そういう人に米国式光明思想は『価いを払え』とハッキリ云う。


吾々の生長の家では別に追求しない。吾々の宗教は非常に自由で民主主義である。強制や神罰によって威脅してその人が善を行じても、それは道徳的人格自由の発現でないから『善』でないと云うのであります。


この点ではアメリカの光明思想も類似のことを云っております。ある光明思想家の本には、ホームズ氏もクラーク氏もそうですが、どんな人にも強制的に善を行わしめようと思って祈ってはいかぬ、彼に完全な自由を与えなければいかぬと書いております。


それでは何と祈るかと申しますと、『彼に於いて、神様あなたの御心が成就致しますように』と祈れと書いてありました。唯(ただ)それだけでいいと云うのであります。人間が人間をその思念で強制してはならない。神はその人をよくする道を知り給い方法を知り給う。


彼自身が本当の自由を得たならば、彼の生命は本来神の子であるから自然に完全になると云うのであります。善でも強制することは、いけないと云うのです。アメリカ式自由主義の信仰には仲々深い境地があると思います。



              【完】





神想観の祈りと米国光明思想(4)

2013-09-15 00:00:32 | 今日の言葉

皆さんは本当に毎日神想観を実修していらっしゃいますか。一日でも神想観を止めては可(い)けません。誌友の中には教法を聞いたり、聖典を読んだり、或は神に就(つ)いての議論を戦わしたりするのは好きだけれども、神想観をやるのは好きではないと云う人があります。以(も)ってのほかです。


吾々は毎日神想観を修して神と離れない心境になることが必要なのです。でなければ、何時(いつ)の間にか神様から離れた利己主義的な自分と云うものが出来上ってしまうのであります。吾々の日常生活と云うものは、『対立』と見え、『個我』と見え、『物質』と見える世界に棲(す)んでいるのですから、どうしてもそう云う誘惑と暗示に満ちた世界であります。


その誘惑と暗示を放(ほう)って置いてはいけないのです。吾々は一日の中、少くとも一時間以上は(これを三十分ずつ朝晩に分けても好い)神の方へすっかり心を振り向ける時間を作らなければならないのです。その為に神想観はどうしても必要なのです。


米国光明思想家グレーン・クラーク氏は、『君は喜んで価を払うか』(Are you willinng to pay the price)と云っておりますが、此の考え方が米国光明思想の考え方であります。


吾々は生長の家へ来てお陰(かげ)を得た人にも、『価を払え』と云わなかった。これが日本的謙遜(けんそん)であります。それは美徳のようであるが、忘恩的に人間の魂を養成して、お陰を得ると共に卒業者のように脱退する人が出来た。


この点では米国光明思想は『君は喜んで価を払うか』と云い、富の無限供給を得んとするものは得たお陰の十分の一を公けの事に捧げる、そこに無限供給が重ねて来ると云っています。


又、吾々が神様から生命を頂いているとすれば、ただ頂き切りでは可(い)かぬ。一日のうちのある時間は、必ず神様の方へ生命をお返ししなければならない。それが即ち『価を払う』ことになるのだと云っています。


神様は常に吾々のことを思い、吾々の幸福を念願せられて居りますから、吾々も神様を純粋に念(おも)う時間を有(も)たなければならない。これが神想観なのであって、神想観をすることが神から生命を頂いた価を払うことだと説明しています。