正しい信仰というものは、釈尊が尼蓮禅(にれんぜん)河畔(かはん)で迷いを去って
悟りをひらかれた時のように「 天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」 と
知ることであり、
キリストがヨルダンの河畔でサタンの誘惑を退けて自己の神性を知り、
「 われ神の子 」 と宣告されたように、
あなたも亦(また)、「 われ神の子、天上天下唯我独尊 」 と悟ることなのである。
この「 天上天下唯我独尊 」 の自覚は、決して、利己主義でも個人主義でもないのである。
自己( 自個 )の内に“ 独尊 ”の絶対価値をみとめるとき、
はじめて“ 他個 ”の中にもある“ 独尊 ”の絶対価値を見ることが出来るのである。
自己の内に絶対価値を見出し得ないような者が、どうして“ 他個 ”のうちに絶対価値をみとめて、
それを礼拝することができるのであろうか。
『 生長の家 』 誌 昭和四十四年十二月号
「 実相を礼拝して 生活を光明化するには 」 一日の法語 谷口雅春先生