では、本当に「 縁なき衆生は度し難し 」なのだろうか。
「 縁なし 」といって放置して見殺しにしておいて、よいものだろうか。
現象面では波長が異なり、肉体は触れ合っていてすらも、
心は互いに断絶していて互いに触れることが出来ないかも知れないけれども、
実相は彼らも亦“ 神の子 ”であり、本来“ 仏性 ”であり、
彼らの生命の根元的な面に於いては、互いに密接に“ 一体 ”なのである。
だから彼らを救ってあげようと思えば彼らの生命の根元的な面で彼らと接触すればよいのである。
即ち、彼らの「 実相 」の円満完全さを心で凝視し礼拝する行事をつづけるがよいのである。
彼らにも“ 実相の完全さ ”が宿っているのであるが、彼らの肉体は“ 実相 ”の波長には全然波長の
合わない迷妄の波長を起しているために、“ 実相 ”と“ 肉体 ”との間が相互断絶していて
“ 実相 ”は隠覆(いんぷく)されて、恰も眠ったような状態になっているのである。
私たちが彼らを救わんがために、彼らの「 実相 」の円満完全さを凝視して礼拝するのは、
その眠っている「 実相 」に対して、波長のあう霊波を起して「 実相 」を霊波で叩いて
目を醒(さ)まさせて「 実相 」のハタラキを表面にあらわすためなのである。
『 生長の家 』 誌 昭和四十四年十二月号
「 実相を礼拝して 生活を光明化するには 」 九日の法語 谷口雅春先生