大自然の動植物及び鉱物等に見られる叡智には ただただ感嘆するほかはない
のであるが、それら鉱物・植物・動物は、ただ被造物であって、作られ、与えられ
たる形や働きやを受けて あらわしているだけであって、それは、どこまでも
「 造られたもの 」であって「 創造の主体 」でもなければ、「 創造の意識的中心 」でも
ないのである。
それは「 ゜られ゜たるもの 」( 受動 )であって、「 ゜する゜ 」( 主働 )ものではないのである。
しかし、人間は、「 創造の意識的中心 」である。人間はシテであって、神が主働者であるが
如(ごと)く、自己が創造の意識的中心となって創作し、創造するのである。
それゆえに、人間は単なる被造物ではなく、神と共に創造の主体的“ 担い手 ”なのである。
それゆえにこそ「 神の最高の自己表現 」と言い得るのである。
常に 「 自己が神の最高の自己表現 」 であることを思い出せ
吾々は時々、自己が「 神の最高の自己実現 」であることを忘れるのである。
そんな時、私たちは 失敗したり、脱線したり、意気消沈したり、悲観したり、
病気に罹(かか)ったりするのである。
それゆえに 私たちは自己が「 神の最高の自己表現 」であることを
毎日 新たに 思い出す必要があるのである。
神想観は、人間が神の最高の自己表現であることを思い出すための
最もすぐれたる行事である。
『 人生の秘訣365章 』( 68頁 ~ 69頁 ) 谷 口 雅 春 先 生
“ 春 ” 積極生活法 3 ・ 神の世嗣としての自分
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