< ( 無門関 ) 第五則 香厳上樹(きょうげんじょうじゅ) >
・・・・・ ただ端的の霊跡(れいせき)清掃の行持(ぎょうじ)の実行となった時に
・・・・・ 平常ならば 何の変哲(へんてつ)もなく聞(きこ)えたであろうところの
撃竹(きゃくちく)の音が契機となって絶対渾然の絶対把握が成就したのである。
茲(ここ)に 「 行(ぎょう) 」 の力を 吾々は見逃してはならないのである。
書物に書いたり絵に描かれた餅(もち)では 腹はふくれぬ。
併(しか)し 本当の餅であっても ただ食膳に置いてあるだけでは 腹はふくれぬ。
それを実際に腹中(ふくちゅう)に運ぶところの 「 行 」 の力によって、
食物(しょくもつ)が食物としての実相を顕(あらわ)すのである。
だから、私は 常に経典(きょうてん)の読誦(とくじゅ)と、
神想観(禅定ぜんじょう)と愛他行(あいたぎょう)(自他一体行)の三つの実行を
悟(さとり)に到(いた)る三正行(しょうぎょう)として勧(すす)めているのである。
そう云(い)う 「 行 」 の力によって 悟(さとり)に達した香厳和尚(おしょう)が
提示した此の「上樹」の公案であるから、その意図を看破(かんぱ)して解(と)かねば
ならぬ。・・・・・
・・・外界(がいかい)の進退(しんたい)両難(りょうなん)は、心の世界の
進退両難の反映(はんえい)でしかないからである。・・・
・・・机上(きじょう)の閑空想(かんくうそう)の葛藤(かっとう)であるからである。
葛藤 本来なく 進退両難 本来なし であるのに、わざと わが心で葛藤を作り、
進退両難を為(つく)っているからである。
「 口に樹枝(じゅし)を啣(ふく)み、手に枝(えだ)を攀(よ)じず、
脚(あし)に樹(じゅ)を踏(ふ)まず、樹下(じゅげ)に 人(ひと)あって
西来(さいらい)意(い)を問(と)わんに・・・ 」 と云うのが、
何故(なにゆえ)に 進退両難であるか。
手が枝に触れなかったら、みずから能動的に手を動かして 枝を握れば
好(よ)いではないか。枝を握って 口を離して、さて それから 祖師(そし)西来
意に 就(つい)て応答すれば好い。
何処(どこ)にも 事実上 進退両難は ないのである。
進退両難の原因は 「 手は 枝を攀(よ)じず 」 と自分自身 本有(ほんぬ)の
自由自在の力を限ってしまったところにある。
それは 白墨(はくぼく)の線を自分を縛る綱だと思って 身動きの出来ないような
自己暗示に陥(おちい)った鶏(にわとり)の不動(ふどう)金縛(かなしばり)と
同じことである。
不動金縛は 自分の心の中に在る。心から不動金縛を取去(とりさ)ったとき、
吾々は いつでも 進退両難の窮境(きゅうきょう)から脱却することが出来るのだ。
何故(なぜ)なら、進退両難の窮境は実相に於ては‘無い’ものであって、
唯(ただ)空想の中にのみ存(そん)するものに過ぎないからである。
『 無門關解釋 』 ( 61~65頁 ) 谷 口 雅 春 先 生
< 参考 >
【 鶏の不動金縛 】
「 白墨(はくぼく)の線も 自分を縛(しば)る綱(つな)だと思えば動けなくなる 」
谷 口 雅 春 先 生
『 生命の實相 』 ( 新編版 第4巻 実相篇 光明の真理 下 32~40頁 、頭注版 第2巻71~76頁 )