何者も 吾人(ごじん)に敵対して立つ者は ないのである。
若(も)し 誰かが真に敵対して自分に向かってくるならば、
その原因は、周囲の誰かが此(こ)のハンブリン氏の語の通り
「 自分に反抗して立っている 」 と誤想し、 「 彼らが自分たちを崩壊せしめようと
している 」 と誤想し、みずから 「 かかる心的態度は その想念の犠牲者から
凡(あら)ゆる善きものを 遠ざける結果になる 」 のである。
そして ついに自分をしてあらゆる種類の否定的状態を感受し易き状態に立ち到らしめ、
「 それに対して身を曝(さら)すことにならしめ 」 ついに自己崩壊せしむるに到るのである。
凡(およ)そ 人生に起ってくるところの全ての災禍や葛藤は
周囲から害を与えられるという妄想に出発し、妄想が信念となり、
その信念が周囲の状態を一層険悪に形造らしめ、心に身構えすればするほど
周囲は険悪となり、自分の想念で造った険悪の渦巻きの中へ、自分自身の身を投じて、
四面楚歌とも言うべき惨禍(さんか)の中へみずから情死せしむるに到るのである。
簡単に言うならば 「 心に禍いを描いたら、最初は主観的にのみ存在する禍いが
客観的に形造られ、禍いの渦巻きの中に みずから溺没(できぼつ)する 」 という真理である。
これは 凡(あら)ゆる紛争の心理的想念的原因であって、将来人類に惨禍なからしめるには、
此の心の法則、その真理をひろく普及して、 「 心に禍いを描かない 」 ように
せしめることが必要なのである。
地上に神の国を実現するのは 亦(また)かかる心の法則を知らしむることによってのみ
可能となるのである。ここに生長の家の真理、ニューソート的真理の普及が
喫緊事(きっきんじ)なのである。
思想は自由なれども、心に禍いを描いて、その結果 禍いを勃発(ぼっぱつ)せしめ、
自己と周囲を破壊するようでは、自由を得たとは言われない。
真の思想の自由は、真理を想念する自由でなければならぬのである。
キリスト曰(いわ)く、 「 真理は 汝(なんじ)を自由ならしめん 」 と。
新版 『 叡智の断片 』 凡ての災害は想念が原因 ( 75~77頁 ) 谷 口 雅 春 先 生