☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

神想観についての心得書き 2

2015-05-26 07:17:49 | 今日の光明法語


( 三 ) 自分の肉体、感情体、及び精神体のすべてが自分の脳髄をアンテナとして
宇宙霊の流れ入る所の流入口となり、わが想念によって全身心が浄められ、
それによって支配されると感ずる

「 感情体 」 と云うのは、「 幽体 」のことであります。それから「 精神体 」と云うのも、
やっぱり“ 想念の体 ”であって“ 幽体の表面 ”の方であります。
“ 感情体 ”の方がもう一つその奥の方に在るのであります。
我々の体(たい)は、大別すると肉体、エーテル体、幽体、霊体の綜合体(そうごうたい)で、
その中心に本体と云う実相の、「 現象以前の本体 」があるので、各々の体は 本体の周辺に層を成して
いると考えてよろしい。

もっと細(こまか)く分ければ いくらでも分類できますけれども、“ 感情体 ”及び“ 精神体 ”と
云うのは“ 幽体 ”のそれぞれの層であります。そして肉体は現実的な感覚を司ります。
その肉体と幽体との接着(つなぎ)のハタラキをするのが“ エーテル体 ”であります。

その“ 幽体 ”は眠っているときなどに幽界に出遊することがあります。
また、眼が覚めているときでも、多少一寸横へ寄ってズレている事がある。
つまり肉体とピッタリ重なり合わないで、一寸(ちょっと)‘ だぶって ’いるように見える。
そう云う所から、それを英語でダブル(double)と言います。
肉体と二重写しのようになって見えるので、「 複体(ふくたい)」と日本語で名称づける場合も
あるのであります。

神想観の時には、この肉体および感情体並びに精神体が、自分の脳髄をアンテナとして、
自分の全体に宇宙霊を流れ入らしめるように感ずるがよい。
そうして宇宙霊によって自分の全存在が浄(きよ)められるように感ずるとよろしい。


( 四 ) 意志の力により、ある一定の言葉を心に念じて それに精神を集中する

生長の家では、「 神の無限の生かす力 流れ入る流れ入る・・・」 と云う語(ことば)が
基本的な神想観に於ける念ずる言葉でありますが、それをじーっと念じて
意識朦朧(もうろう)としたり、無念にならないで 意識をはっきりとその言葉の意味に集中するのです。

その時に唱える言葉を呪文みたいに無意味に繰返して無念無想になってしまって、何らかの霊に
憑依(ひょうい)されるようなことになると、一種の呪術(じゅじゅつ)(まじない)になってしまって
本当の神想観ではなくなってしまうのです。
同じ念ずる語(ことば)を毎日繰返していると、それが習慣的になって、唱えていることばの意味を
本当に想念しないことになるとかえって効果が無いのであります。

その言葉の意味を通して 真に神を想(おも)うところに効果が有るのです。
また、あんまり習慣的に同じ言葉を唱えていると、心に余裕が出来てその言葉を心の一方で
唱え乍(なが)ら、こころの他方では他の事を考えたりします。

「 ああ今晩家へ帰って何を御馳走(ごちそう)こしらえようか 」なんて他方で思い乍ら、
一方で「 神の無限の生かす力 流れ入る流れ入る・・・」と念じているという事になるのですから、
そこで、そういう事になってくると別の言葉で念ずるようにするのです。

そうして、最初念じた言葉よりも、もっと深い意味を含んだ複雑な言葉を念じます。
「 如意宝珠観(にょいほうじゅかん) 」 であるとか、「 四無量心(しむりょうしん)の神想観 」で
あるとか、「 観普賢菩薩行法(かんふげんぼさつぎょうほう)」 であるとか云う もっと複雑な念じ方の
神想観をやって、複雑な相(すがた)を眼の裏に描いて観ずるようにします。

その念ずる時に、例えば 「 流れ入る・・・ 」 と念ずれば、ある光体が流れ入るような有様を
眼の裏に描いて、目を閉じているけれども その奥に在(あ)る「 心の眼 」で、じーっと それを
見詰める気持ちになると、意識がハッキリしながら精神が統一し易いのであります。

時には 次のように清浄化され精妙化され霊化されたる自分を念ずるのもよいのであります。



つづく・・・



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