☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

二日の法語 感謝している時、天国を製造しているのである

2013-09-17 12:25:10 | 今日の言葉

窮乏している時に、僅(わず)かな金を恵まれたり、住む家のない時に部屋を貸して貰えたりするならば、その恩恵に対して誰でも感謝するのである。


しかし私たちは眼に見えない多くの物の恩恵に感謝を忘れ勝ちであるのである。


たとえば空気の御恩のようなもの。


また眼に見えていても、それがあまり豊かであるので、それを受けることが当り前だと思って感謝しないもの、太陽の光と熱、そして父母(ちちはは)の愛。


わたしたちは常にあまり多くの御恩の中に生かされているので、却ってそれを忘れ勝ちであるのである。


私たちは常に多くの恩恵に取り巻かれ、それによって生かされていることを思い出して感謝するがよい。


あなたが感謝の念を起しているとき、あなたは天国を製造しつつあるのである。





一日の法語  感謝、到る処に天国を生み出す

2013-09-17 12:24:52 | 今日の言葉



その人の幸福の大小は、その人を取り巻く物質の大小によるのではないのであり、その人自身の感謝の感情の大小によって定まるのである。


感謝の念、大なれば乏(とぼ)しき物質の中にいても、その人は天国の悦びを享受することができるし、豪華絢爛(ごうかけんらん)の物質に豊富にとり囲まれていても、心が不幸や憤(いか)りに満たされ、他(ひと)を呪っているならば、地獄の苦悩を体験するのである。


それゆえに常に万物に感謝せよ。


見るもの聞くもの、触れるもの、その悉(ことごと)くに感謝せよ、念々感謝の中から天国は生み出され、浄土は誕生するのである。



生長の家は本来の姿である、谷口雅春先生の御教えに戻るべき・・・現職員のお気持ち

2013-09-17 12:23:58 | 今日の言葉

生長の家光明掲示板・第二 から、投稿文を掲載させていただきます。

原宿本部は、10月から八ヶ岳本部に移転しますが、
本部職員、本部講師の本心の気持は、どこにあるのか、
知ることができる貴重なご文章ですので、
多くの一般信徒の方々に知っていただきたいと思います。



生長の家本部は身勝手な人間ばかり (734)

日時:2013年09月13日 (金) 22時33分
名前:現職員

今月の下旬から順次、本部職員の引っ越しです。
長坂寮ができるまでのわずか半年のために、
山梨や長野のアパート住まいを強いられる職員の身にもなってほしいものです。

私は辞めたくないので仕方なく山梨行きを決めましたが…。

それにしても移転間際になって駆け込み退職する本部講師たちよ。
がっかりしました。恥を知れと言いたいです。
今までさんざん森の中のオフィスを称えておいて自分は辞めるのかい!
今の生長の家本部はこんな身勝手な人間ばかりです。

山梨に行ったらまた報告します。
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仕方なくでも今は耐える時 (780)

日時:2013年09月14日 (土) 21時04分
名前:現職員

雅宣総裁が好きと言う人でも、
山梨のあんな不便な地に本心から喜んで行く職員は、
たぶんいないと思いますよ。

仕方なくというのが殆どの職員の気持ではないでしょうか。

私には雅宣氏の方針を支持するつもりは皆無です。

谷口雅春先生の御教えと生長の家が好きという点だけに
しがみついていたいから不本意でも山梨に行くんです。

そしていつか生長の家は本来の姿に戻ると信じたいんです。

雅宣氏や理事長から嫌われている教化部長や本部講師が全国にいますが、
救いなのは私と同じ様な考えで教団にしがみついている人が
まだたくさんいるということでしょうか。



※ 読みやすいように改行しております。






神想観の諸段階とその功徳(7)

2013-09-16 15:11:24 | 今日の言葉

神想観の第六過程である「瞑想」は Contemplationを訳したのであります。「黙念を持続的につづけておれば自然に瞑想になる」とスター・デーリーは言っています。


「黙念」の場合には「吾々は本尊を通して本尊の中で念ずるが、瞑想の場合には吾々の内で吾々を通して本尊が念ずるのだ」とデーリーは注釈しています。


まことに神想観の深い状態に於ける心境を道破(どうは)したものと言えましょう。


「自分」と云うものが「神」と対立していて、「自分」が神に対して「祈る」と云う最初の状態から段々「自分」が神に近づいて行って距離がなくなり、ついに「自分」が神の中に入って念ずる ー まだその境地では、神の中に「自分」と云うものがありながら、「自分が祈る」と云う感じがある限り、神と「自分」と云うものの対立は消滅していないのであります。


それが段々、「自分」が無くなり、「自分」と云うものが神に同化する境地になります。自分と神とが一体になってしまう。


神が自分であり、神がこの肉体の中で念じておられるのだと云う境地になるのであります。これが黙念→瞑想→既に成就せりとの強烈なる自覚への到達と云う順序であります。



                        【完】




神想観の諸段階とその功徳(6)

2013-09-16 15:11:10 | 今日の言葉

こうして身心脱落の心境に入った次には、本尊への精神集注(しゅうちゅう)を行うのであります。スター・デーリーは、キリストの姿を心に描いて、それに精神集注をするのでありますが、生長の家は万教帰一でありますから、キリスト教徒はそのようにして宜(よろ)しいですが、


浄土宗や浄土真宗の人たちは阿弥陀仏(あみだぶつ)の尊像を心に描いてそれに精神集注を行うのもよろしいし、真言宗ならば、大日如来(だいにちにょらい)の尊像又は「阿字(あじ)」を心に描いて、その本尊に精神集注を行うのが宜しい。


日蓮宗の人ならば、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」のお曼荼羅(まんだら)を心に描いて精神集注すればよろしいし、


今まで信仰なくして最初から純粋に生長の家だけの信仰に入った人や、「実相」の中に一切の本尊が存在すると云うことが理解された人ならば、「実相」の大文字を本尊として心に描いて、それに精神を集注するがよいのであります。


要するに本尊への心の集注によって、本尊の御遺徳によって、一切の雑念妄想が消え去るのであります。




神想観の諸段階とその功徳(5)

2013-09-16 00:05:10 | 今日の言葉

次に必要な課程は「身心を放下すること」である。「緊張緩和」と言う方が現代人にはピンと来るでありましょう。「放つ」心境になろうとあまりも努力するがために、却って緊張を増すことにもなるのであります。


私が発見した有効な方法は、全託の気持になり、呼吸を調(ととの)え、呼吸に合わせて「平和であれ、静かであれ」と念ずることであります。


或(あるい)は「われ神の生命の洗礼を受く、われ神の生命の洗礼を受く」と念じながら息を静かに静かに吸い、「われ神の生命に浄められたり、われ、新らしき者なりたり」と念ずると不思議に全心身が浄まって最早、罪なき者と云う自覚とともに、「脱落身心、身心脱落」の境地に入るのであります。


肉体だけを力を抜く練習をしましても、心に罪の観念や、力(りき)みや緊張が残っていましては、本当の緊張緩和になり得ないのであります。




神想観の諸段階とその功徳(4)

2013-09-16 00:04:40 | 今日の言葉

この自己の徹底的批判は神想観又は祈りを繰返しているうちに益々峻厳(しゅんげん)になって来るのが普通で、私が『聖道(しょうどう)へ』の中で書いておいたように、一切の肉食が残忍な行為に見えて来、呼吸するさえも多くの微生物を殺していると云う反省にまで発展して来るのであります。


その過程に於いては私たちの潜在意識の底にひそむ傲慢(ごうまん)な虚栄心と、肉体の自我心とが、今や謙遜(けんそん)に懺悔(ざんげ)せんとする自分に挑戦して来ることがあります。


「誰でも肉食しているのに、どうして肉食しては悪いか」とか、「獣肉を食するのは残酷だと言うが、お前だって魚をくっているではないか。米粒だって生きているじゃないか。」とか云う風に肉体の自我心が言って魂の向上を妨(さまた)げようとするのであります。


また時には内密にただ心のうちに空想で犯していた罪が想(おも)い出されて来て、自分を“不浄の者”として叩(たた)きつけて再び起ち上がれないほどの魂の苦渋を味(あじわ)わすこともあります。自分の不信仰の根の深さがわかって人間的なプライドや自尊心が崩れてしまう時もあります。


こうしてメディテーションを続けている最初の或(あ)る段階に於いては自己の無価値が痛感されて信念が滅茶滅茶(めちゃめちゃ)にあらされてもう困憊(こんぱい)し切って、血塗(ちまみ)れのたたかいに、もうどうすることも出来ないような心境になることもあるのであります。


若(も)し私たちが、内に潜(ひそ)む「自我の正体」を神が見給う如く見詰め、更にそれを見詰めつつ押し進むならば、私たちは迷いの深さに、とても実相を顕現する見込などはないと感ずるようにさえなるのであります。


しかし優れたる修行者はその中から勇敢に立上ります。「自我の正体」をまざまざと精視(せいし)して、それに対して「サタンよ、去れ」とイエスが言ったように肉体的自我を否定することができます。


併(しか)し、「自我の正体」に対面したとき、それから抜け出すことをしないで、「それほど悪いことでもないや」と、帰って来てくれることを待っている古い肉体我の誘惑の温い腕にいだかれたくなって元の黙阿弥(もくあみ)になってしまう人たちも随分あるのであります。


だから「“どんな事があっても精進努力をつづけて退転しないと云う決意”と云うものが最初に是非必要だ」とスター・デーリーは神想観の過程のトップ事項に“決意”を挙げたのであります。



神想観の諸段階とその功徳(3)

2013-09-15 20:35:49 | 今日の言葉

メディテーションにとって次に必要な根本的法則は、肉体的及び感情の緊張を脱落させることであって、これを道元禅師は「身心(しんじん)脱落・脱落身心」と云う語で表現されたのであります。これも最初から完全に行われるにはきまっていないのであります。それは坐禅をやってみた人々の経験によって明らかであります。


スター・デーリーは次のように謂(い)う ー

「メディテーションは易々加減(いいかげん)に出来るものではないのである。それは世界中の芸術中の最大の芸術である。だから、それを実修する人に極度のきびしい鍛錬(たんれん)が課せられるのである。


仮借(かしゃく)なき自己の性格に対する自己批判と懺悔(ざんげ)が必要なのは言うまでもないが、この芸術を完成せずには置かないと云う決意と、忍耐と失敗につぐ失敗や、もうどうしたら好(よ)いかわからない杜惑(とまど)いにも屈せずに、どこどこまでもやり遂げる“精進努力”と謂(い)う価いを払うということなしには、その“手ほどき”さえも得られないのである。


メディテーションの深い境地に於いては、人は“自分自身”に直接対面するのである。

安光(やすびか)りの安価なニセ物の自分が露呈せられる。善良なクリスチャンにありがちな極内密(ごくないみつ)の虚栄心のニセモノがニセモノ中の最も恐ろしいニセモノとして浮び上って来る。

今まで平気で語ったゴシップが恰(あたか)も殺人罪の如く思われて来る。今まで思わず口をついて出た人の悪口がガラガラ蛇のように恐ろしいものに思われてくる。

告げ口することが恰(あたか)もジャーコール狼の出現のように見えて来る。そして人を審判(さば)くことは恰(あたか)も夜襲うて来るハイエナのように見えて来る。」と言っている。



こうして自己批判が徹底して今までの自分の行為や心境に直接対面してそれらが徹底的に否定され懺悔(ざんげ)されて来るのでなければならないのであります。


つまり神想観で実相を完全に観じるようになるまでに、私たちは浄瑠璃(じょうるり)の鏡の前に立ったように心を静めて自己の過去の心の汚れを徹底的に浄化して置くことが必要であるのであります。







神想観の諸段階とその功徳(2)

2013-09-15 20:35:30 | 今日の言葉

最初の「決意」と言うのは、「吾れ神想観をなす。これを為し終らざれば一歩も退かず」と云う決意をなすことが必要なのである。聖書にイエスが“神の子”の悟りに入(い)り給うたときに、「四十日、四十夜、断食して、後に飢えたもう。試(こころ)むる者きたりて言う、

『なんじ若(も)し神の子ならば命じて此等の石をパンと為らしめよ』答えて言い給う『人の生くるはパンのみに由(よ)るにあらず、神の口より出(い)づる凡(すべ)ての言(ことば)に由る』と録(しる)されたり」とあるのは、

イエスが徹底的に神想観をなそうと云う決意の示しがあらわれているのだと言わなければならないのであります。

「四十日四十夜断食して後に飢えたもう」と云うのは四十日四十夜断食して神想観をした後に、飢餓感が甚(はなは)だしくなったという意味であります。「飢えたもう」と云うのは必ずしも“腹が減った”と云うような軽い意味ではありますまい。

たんに腹が減るだけなら、一二日断食しても腹は減っているのです。だからこの場合の「飢え給う」は、たまらないほど飢餓感が激しくなったことであります。

その時にサタンが出て来て、「お前はそんなに神の子だったら、此(こ)の石をパンとして食べたらどうですか」と言ったというのである。

併(しか)しイエスは「唯今(ただいま)、神想観中」と言うわけで、「神の口より出づる言葉を今受けつつあるのである」とて、そのような肉体的飢餓感の誘惑を退けて、「神の言葉」を念じつづけたのであります。


次回に続く・・・

神想観の諸段階とその功徳(1)

2013-09-15 20:35:09 | 今日の言葉

『生長の家』誌昭和三十四年八月号より  谷口雅春先生


生長の家の誌友は是非とも神想観を怠(おこた)ってはなりません。

スター・デーリーは斯(こ)う言っています。
「禅定(ぜんじょう)的神想観(Meditation)は若(も)しきわめて完全に行われたならば、それは一種の芸術と謂(い)い得るであろう。

それは音楽や絵画の如く必ずしも特殊の形式に執(とら)われる必要はないのであるが、すべて美が形として表現されるときには、それぞれの根本的法則があるように、

メディテーションを行うにも一定の法則があり、その法則が完全に行われるときには、意識の高揚を体験することができるのである。」
このようにスター・デーリーは言って、その根本法則を次の七つの段階に分けて示しています ー

一、決意。

二、心身を放下すること。(緊張を解くこと)

三、精神を本尊に集中すること。

(デーリーはCentralizationという語をつかって次の“精神統一”と区別している。彼は瞑目(めいもく)中の眼球を上目附(うわめつき)に額(ひたい)の上方を視(み)つめるつもりでキリストの姿を描いて、それに精神を一点に集中するのである)

四、精神統一。

(Concentrationである。精神集中が一層強力となり純化されて、一切の雑念が消える状態である。目の裏が蒼空(あおぞら)のような感じとなる)

五、祈りの言葉の黙念。

(本尊に対して欲する事物を念ずる)

六、欲する事物の成就せる有様を持続的に瞑想する。

七、既に成就せりとの強烈な自覚。




神想観の祈りと米国光明思想(5)

2013-09-15 00:00:53 | 今日の言葉

アメリカ式の物の考え方はハッキリしているのであります。


もう一つ『喜んで価を払う』べきは、自分が教えを受けてお陰を受けたならば、そのお陰を人に伝えて教えを弘(ひろ)め、その喜びと教えとを人にも頒(わ)け与えると云うことが『価を払う』ことだと云っています。


信仰の用語も、ビジネスの用語も、『価(プライス)を払(ペイ)する』と云うので、米人式な歯に衣(きぬ)着せぬ朗かな云い方で直截簡明(ちょくせつかんめい)なあけっぱなしの国民性をあらわしていて好いと思います。


生長の家では、神様は罰を当てないと云っている。これはクリスチャン・サイエンスと同じことである。併(しか)し罰は無いとしたらお陰を受けたらお陰の取り徳にして置いた方が得ではないかと思う人が出来る。そういう人に米国式光明思想は『価いを払え』とハッキリ云う。


吾々の生長の家では別に追求しない。吾々の宗教は非常に自由で民主主義である。強制や神罰によって威脅してその人が善を行じても、それは道徳的人格自由の発現でないから『善』でないと云うのであります。


この点ではアメリカの光明思想も類似のことを云っております。ある光明思想家の本には、ホームズ氏もクラーク氏もそうですが、どんな人にも強制的に善を行わしめようと思って祈ってはいかぬ、彼に完全な自由を与えなければいかぬと書いております。


それでは何と祈るかと申しますと、『彼に於いて、神様あなたの御心が成就致しますように』と祈れと書いてありました。唯(ただ)それだけでいいと云うのであります。人間が人間をその思念で強制してはならない。神はその人をよくする道を知り給い方法を知り給う。


彼自身が本当の自由を得たならば、彼の生命は本来神の子であるから自然に完全になると云うのであります。善でも強制することは、いけないと云うのです。アメリカ式自由主義の信仰には仲々深い境地があると思います。



              【完】





神想観の祈りと米国光明思想(4)

2013-09-15 00:00:32 | 今日の言葉

皆さんは本当に毎日神想観を実修していらっしゃいますか。一日でも神想観を止めては可(い)けません。誌友の中には教法を聞いたり、聖典を読んだり、或は神に就(つ)いての議論を戦わしたりするのは好きだけれども、神想観をやるのは好きではないと云う人があります。以(も)ってのほかです。


吾々は毎日神想観を修して神と離れない心境になることが必要なのです。でなければ、何時(いつ)の間にか神様から離れた利己主義的な自分と云うものが出来上ってしまうのであります。吾々の日常生活と云うものは、『対立』と見え、『個我』と見え、『物質』と見える世界に棲(す)んでいるのですから、どうしてもそう云う誘惑と暗示に満ちた世界であります。


その誘惑と暗示を放(ほう)って置いてはいけないのです。吾々は一日の中、少くとも一時間以上は(これを三十分ずつ朝晩に分けても好い)神の方へすっかり心を振り向ける時間を作らなければならないのです。その為に神想観はどうしても必要なのです。


米国光明思想家グレーン・クラーク氏は、『君は喜んで価を払うか』(Are you willinng to pay the price)と云っておりますが、此の考え方が米国光明思想の考え方であります。


吾々は生長の家へ来てお陰(かげ)を得た人にも、『価を払え』と云わなかった。これが日本的謙遜(けんそん)であります。それは美徳のようであるが、忘恩的に人間の魂を養成して、お陰を得ると共に卒業者のように脱退する人が出来た。


この点では米国光明思想は『君は喜んで価を払うか』と云い、富の無限供給を得んとするものは得たお陰の十分の一を公けの事に捧げる、そこに無限供給が重ねて来ると云っています。


又、吾々が神様から生命を頂いているとすれば、ただ頂き切りでは可(い)かぬ。一日のうちのある時間は、必ず神様の方へ生命をお返ししなければならない。それが即ち『価を払う』ことになるのだと云っています。


神様は常に吾々のことを思い、吾々の幸福を念願せられて居りますから、吾々も神様を純粋に念(おも)う時間を有(も)たなければならない。これが神想観なのであって、神想観をすることが神から生命を頂いた価を払うことだと説明しています。




神想観の祈りと米国光明思想(3)

2013-09-14 21:51:18 | 今日の言葉

何も求めないけれど、神様がここに生きていらっしゃる。神は総(すべ)ての総てであるから既に自分には総てが備わっているのだ。自分は幸福であるより仕方がない、自分の周囲には有難いことしか起りようがない、自分の一挙手一投足、一刻一瞬は神の営みであると感じられる心境に達するのであります。


その心境を呼び出す歌が第三首の招神歌『わが業(わざ)はわが為すに非ず、天地を貫きて生くる御親神(みおや)の権能(ちから)』であります。自分が為すのは、神が為し給うのだと云う心境です。神我一体です。


神我一体となるためには、『我』と云うものがあって、『神』と対立していて、この二つが結びつくのでは駄目です。自分を全然、神にまで自己滅却して、神への無条件降伏をなしたとき、進駐軍が入ってくるように神が入って来て、神のみになってしまってそのときに出て来る『我は全智全能で何でも出来る』と云う大きな自覚こそ本当であり、『我』が残っていて『我は全智全能だ、何でも出来る』と考えたら増上慢(ぞうじょうまん)であります。


だから、吾らの祈りは『神の生命を吾に流れ入らしめ給え、吾に神の生命を、智慧(ちえ)を、愛を実現せしめ給え。私の一挙手一投足が、神様、あなたの生命の実現でありますように』と云うようでなければならない。


此の無我の祈りを繰返しているうちに、『神我れに宿り給うて我れとして神のみ業(わざ)を為さしめ給う』と云う自覚が出て来て、神と全く和解した心境になるのであります。


神と対立している間は、神に対してまだ本当に和解していないのであります。神への無条件降伏による神への全的和解の行事が神想観なのであります。


第四首目の『天地(あめつち)のみ親の道を伝えんと生(あ)れましし、生長の家の大神護りませ』は、神想観実修の途中の心境中、悪霊の憑依(ひょうい)などの障礙(しょうがい)の起らないように生長の家の神様の御降臨を願う歌であります。







神想観の祈りと米国光明思想(2)

2013-09-14 21:50:58 | 今日の言葉

本当の信仰は、神様に全部をまかす。神様に全然『自分』という牙城(がじょう)を明け渡すのです。すっかり神様に城を明け渡してしまって『今神様のみがここにまします』と深くそれを思念する心境に達するのです。

『わが生くるはわが力ならず、天地(あめつち)を貫きて生くる祖神(みおや)の生命(いのち)』と云う、招神歌の第二首がそれであります。

この歌の心を深く繰返し念じます。すると自分の生きているのが自分の力でないことが判(わか)るのですから、わが一挙手一投足が神様の御心のままでありますように、自分の生活の一瞬一刻が、神様の生活の一瞬一刻でありますように、斯(こ)う云う祈りの心が起ってまいります。

そうすると神の生活が、吾々の一挙手一投足にあらわれ、生命の世界の素晴らしい荘厳さが生活に、今此処(ここ)に内からの催(もよお)しと外からの催しとで実現する境に達するのであります。

尤(もっと)も神様は自由でありますから、その生活はどんな形で現れるかも知れない。それは吾々の予想しないような順序を以(も)って外の境遇から推し進めて来られるかも知れない。どんな風に現われて来ようとも、至善なる神様からは悪いことが出てくる筈がない

若し悪く見ゆることが出て来たなら、吾々の過去の方向の間違った生活又は心が転回する為の自壊作用として現れるのであって、吾々は決して恐れることは要らないのです。悪と見ゆることは皆迷いの自壊する為に現れるのであります。それは唯(ただ)真理が実現する為に出て来るのであります。

それは恰(あたか)も今まで間違った方向に歩いていた者が壁に打衝(ぶつ)かって自ら向きが変わるようなものである。悪いことは自然に消えてゆくのです。出て来ること、皆よい事だと信ずるのが、神への全托であり、自分がなくなる事であります。そうなると何でも有難く何でも美しく、何にも求めるものがなく、任せ切りの本当に澄み切った心境になるのであります。