☆ 住 吉 大 神 浄 め 給 う ☆

天皇陛下、ありがとうございます。ご先祖の皆様、お父さん、お母さん、家族の皆様、ありがとうございます。

八月の神示

2017-01-15 01:15:15 | 今日の光明法語

8 月 5 日 ( 昭和 8 年 ) 本当の信仰に就(つ)いての神示

「 平和は 内界(ないかい)にあるのであって、外界(がいかい)にあるのではない。・・・・・」


8 月 12 日 ( 昭和 7 年 ) 懺悔(ざんげ)の神示

「 汝(なんじ)らのうち 病(や)める者あらば、
吾(わ)が教えの先達(せんだち)の許(もと)に来(きた)りて
祈りを乞(こ)い 神想観の指導を頼(たの)め。
吾(わ)が教えの先達は 吾(わ)が ことばを 受けたるものなれば、
彼(かれ)の言葉 汝(なんじ)を癒(い)やさん。・・・・・」





七月の神示

2017-01-15 00:57:55 | 今日の光明法語

7 月 7 日 ( 昭和 7 年 ) 万教(ばんきょう)包容(ほうよう)の神示

「 キリスト教では 聖地エルサレムが 世界の中心であると言い、
大本教では 丹波(たんば)の綾部(あやべ)が 世界の中心であると言い、
天理教では 大和(やまと)の丹波市(たんばいち)が 世界の中心であると言い、
天行居(てんこうきょ)では 周防(すおう)の岩城山(いわきやま)が
世界の中心であると言う。

世界の中心 争いも 久(ひさ)しいものである。併(しか)し われは 言う、
それらは 悉(ことごと)く 皆(みな)世界の中心であると。
一定の場所が 世界の中心だと思っているものは 憐(あわ)れなるかな。
生命の実相の教えが 最も鮮(あざや)かに 顕(あらわ)れたところが
形の世界の中心であるのである。そこは 最も世を照らす光が 多いからである。・・・・・・」




六月の神示

2017-01-15 00:19:27 | 今日の光明法語

6 月 26 日 ( 昭和 6 年 ) 帰幽(きゆう)の神示

「 汝(なんじ)の肉体は 汝の ‘ 念絃(ねんげん) ’ の弾奏(だんそう)する
‘ 曲譜(きょくふ) ’ である。生命が 肉体に宿(やど)ると言うのは
二元的な考え方であって 真理ではない。
正しく言えば 生命は その念絃の弾(だん)ずる曲譜に従(したが)って
肉体を現(あらわ)すのである。・・・・・」




五月の神示

2017-01-14 23:59:08 | 今日の光明法語

5 月 5 日 ( 昭和 7 年 ) 無限供給の神示

「 われは 道(みち)である、光である、生命である、智慧である、
光は 先(ま)ず東方(とうほう)より現(あら)われて 遍(あまね)く一切(いっさい)を
照(て)らすのである。
生長の家が 日本に現(あら)われたのも 因縁(いんねん)のあることである。・・・・・・」

5 月 6 日 ( 昭和 6 年 ) 新天(しんてん)新地(しんち)の神示

「 見よ、われ 既に 天地を新(あら)たならしめたのである。
人々よ、眼(め)の蔽(おお)いをとれ、われは 新しき智慧である。新しき生命である。
新しき宇宙である。新しき光明である。
われ臨(きた)って 此(こ)の世界は 既に変貌(へんぼう)したのである。・・・・・」

5 月 27 日 ( 昭和 7 年 ) 久遠(くおん)天上(てんじょう)理想国(りそうこく)実現の神示

「 『 生長の家 』 の因縁(いんねん)を書き置(お)く。
『 生長の家 』 とは 人間が附(つ)けた名(な)ではない。神がつけさせたのである。
『 生長の家 』 とは タカアマハラのことである。・・・・・」

5 月 30 日 ( 昭和 6 年 ) “ 心の法則 ” と “ 平和への道 ” の神示

「 吾(わ)が来(きた)れるは 古(いにし)え誤(あやま)れる道徳観念を修正し、
新しき 正しき生き方を 人類に示(しめ)さんがためである。
『 治(ち)にいて 乱(らん)を忘れず 』 と言うのが古(ふる)き人類の道徳であったが、
『 生長の家 』 の生き方は 乱にいて 治を忘れざる生活である。・・・・・」




四月の神示

2017-01-14 23:20:32 | 今日の光明法語

4 月 5 日 ( 昭和 6 年 ) 万教(ばんきょう)帰一(きいつ)の神示

「 われに姿(すがた)かたち あるように言うものあれど われは姿なきものである。
われは 道(ことば)である、われは 霊性(れいせい)である、智慧である、愛である、
生命である、われは如来(にょらい)である、われは 一つにして 多(た)である。・・・・・」


4 月 10 日 ( 昭和 7 年 ) 無相(むそう)円相(えんそう)一切相(いっさいそう)の神示

「 吾(わ)が臨(きた)れるは 物のためではない、生命のためである。
肉のためではない、霊(れい)のためである。・・・・・」





三月の神示

2017-01-14 22:21:30 | 今日の光明法語

3 月 14 日 ( 昭和 7 年 ) 『 いのちのゆには 』 の神示

「 見真道場(いのちのゆには)とは 真(まこと)を見(あら)わす
斎(きよ)めの場(にわ)である。 『 真(まこと) 』 とは
『 生命の実相(まことのすがた) 』 のことである。
斎(きよ)めるとは 迷いを除(のぞ)くことである。・・・・・」


3 月 15 日 ( 昭和 7 年 ) 使命(しめい)邁進(まいしん)の神示

「 人が どう思うかも知れぬと、そんなことばかり気にかけているようなことでは
心の苦しみは 絶(た)えぬものだ。自分が どの位(くらい) 愛したか、
自分が どんな仕事をしたか、そればかりを考えるが好(よ)い。・・・・・」


3 月 16 日 ( 昭和 8 年 ) 至上者(しじょうしゃ)の自覚の神示

「 人 即(すなわ)ち 神であると言う真理を知らぬ者が多いのは 気の毒である。
『 生長の家 』 が 此世(このよ)に出現したのは すべての人々に
此(こ)の至上の真理を知らさんが為(ため)である。・・・・・・」




二月の神示

2017-01-14 21:50:50 | 今日の光明法語

2 月 4 日 ( 昭和 7 年 ) 自他(じた)一体(いったい)の神示

「 『 生命の實相 』 を 読んで 自分だけが 真理を悟って それで善(よ)いと
思うものは まだ ‘ 生命の実相 ’ を 悟ったものではない。
真理は 自他一体のものであるから、ひとに伝えるとき、其処(そこ)に
『 結び 』 の力が発現(はつげん)するのである。・・・・・・」


2 月 9 日 ( 昭和 7 年 ) 上求(じょうぐ)菩提(ぼだい)・下化(げけ)衆生の神示

「 実生活は 捨ててはならず、捨てねばならぬ、そこが難(むつ)かしいのである。・・・・・・」




一月の神示

2017-01-14 21:11:30 | 今日の光明法語

生長の家の御教えは、神示が根本になっておりますが、
33の神示について、月毎の神示と冒頭の句を謹写させていただきます。

谷 口 雅 春 先 生 『 如意自在の生活365章 』 36頁
「 わたしたちは、もっと神示を繰り返し読んで その真意を味読(みどく)すべきである。 」


1 月 6 日 ( 昭和 8 年 ) 梅(うめ)の花の神示(しんじ)

「 梅の花の開く時節(じせつ)が来たのである。・・・・・ 」


1 月 6 日 ( 昭和 21 年 ) 大和(だいわ)の国の神示

「 われ再び 大日本(だいにっぽん)天津(あまつ)日嗣(ひつぎ)天皇(すめらみこと)と
云(い)う意味について語(かた)らん。・・・・・・」


1 月 11 日 ( 昭和 7 年 ) 声字(しょうじ)即(そく)実相の神示

「 吾(わ)が 第一の神殿は 既に成れり。名付けて 『 生命の實相 』 と言う。・・・・・・」


1 月 15 日 ( 昭和 6 年 ) 完成(ななつ)の燈台(とうだい)の神示

「 時が来た。今すべての病人は起つことが出来るのである。・・・・・・」


1 月 25 日 ( 昭和 8 年 ) 自然(じねん)流通(るつう)の神示

「 『 生長の家 』 は 奇蹟を見せるところではない。
『 生長の家 』 は 奇蹟を無(な)くするところである。・・・・・・」





『 神の神義とその理解 住吉大神顕斎の意義 』  はしがき

2017-01-11 17:48:12 | 今日の光明法語

・・・・・それ故にわたしは、既に五十年間に亙(わた)って人間の生命の実相(ほんとのすがた)が、 “ 神 ” の生命であることを 『 生命の實相 』 に於いて説きつづけて来たのである。

かくて 私の著書 『 生命の實相 』 を読むことによって、自己が決して 「 罪の子 」 ではなく、 「 罪悪深重の凡夫 」 でもなく、神の生命こそ、自己に宿って、自己の生命となっており、自己というものが 個性的に顕現した普遍的存在である という神の真義を知り、自己の生命の尊厳と 本来の円満完全さとを自覚すると共に、

今まで、自己の罪悪意識に由(よ)るところの “ 自己処罰 ” による色々の病気や、不幸や、遭難や、貧乏を克服して、真の自由人となり、自己の生命を本当に尊重することによって 自己の人生を快適にして 裕(ゆた)かなる楽園たらしめ得ると同時に、

周囲の人々をも 救い得た幾多の人々の体験があらわれて来たのである。生長の家の信者という人たちは、そのような人達の集まりである。

しかし 神は自己に内在する 「 生命の実相 」 としての神だけではなく、色々の段階に於いて 神は無限の姿をあらわして い給うのである。・・・・・

・・・・・それ故に “ 一神即万神 ” として色々の使命をもつ神々を顕現し給う。
また “ 一仏一切仏 ” として無数の如来を顕現し給い、その使命又は役割も、個性をもって各々異り給うのである。

住吉大神の如く 宇宙天地の万物万生を浄め給うて、地上に天国を建立(こんりゅう)する使命をもち給う神もあるのである。

最近 私は、日本の国情が混乱汚濁(おじょく)して、日本国 本来の美しき荘厳なる秩序がなくなりつつあることを憂え、住吉大神を 鎮護国家、龍宮無限の宝蔵を 開顕したまう “ 場 ” であることを希(こいねが)いて、龍宮住吉本宮を、九州長崎県西彼杵郡西彼町(せいひちょう)の “ 大神平 (おおかみだいら) ” と称せられた土地を卜(ぼく)して、建立したのである。この地を 彼杵郡(そのぎぐん)と称したのは、嘗(かつ)て天から神の祝福の黄金の杵(きね)が降って来たという故事にもとづくと謂(い)うことである。

吾々人間の礼拝の “ 場 ” が出来ることは、神がそこから祝福の霊波を放送し給う “ 放送局 ” が 一局 増加したようなものである。詳しいことは 本文を読んで頂いて、神人の関係を尚(なお)一層よく認識して、諸賢が、龍宮無量の寿福を享受(きょうじゅ)し給わんことを庶幾(しょき)して、この前文を擱筆(かくひつ)する。

昭和五十四年一月十六日

著者しるす


( 立教五十年 記念出版 )
『 類纂 神の神義とその理解 住吉大神顕斎の意義 』  谷 口 雅 春 先 生

<目次>
第一篇 神の本当の意義                
   第一章 本源の神              ・・・・・・  11
   第二章 智慧・愛・法則としての神      ・・・・・・  37
   第三章 神は何処にあるか          ・・・・・・  54
   第四章 神を実現する方法          ・・・・・・  65
   第五章 生長の家の神とは          ・・・・・・  86
第二篇 生長の家本尊の意義
   第一章 生長の家の本尊           ・・・・・・  93
   第二章 生長の家の本尊とその出現の使命   ・・・・・・ 134
   第三章 生長の家の本尊と特得の教義     ・・・・・・ 151
   第四章 生長の家の本尊とその分身      ・・・・・・ 163
第三篇 龍宮住吉本宮建立の意義
   第一章 何故住吉大神の顕斎が必要か     ・・・・・・ 173
   第二章 龍宮住吉本宮建立に到る神々の系譜  ・・・・・・ 179
   第三章 住吉大神出現の由来因縁       ・・・・・・ 208
資料編
    〇 伊勢神宮ついて               ・・・・・・ 233
    〇 地上人類の人生観より唯物論を  
           消除せんが為の祈り        ・・・・・・ 246
    〇 八紘一宇人類一家族成就の祈り        ・・・・・・ 248



葛藤 本来なく 進退両難 本来なし

2017-01-10 21:08:33 | 今日の光明法語

< ( 無門関 ) 第五則 香厳上樹(きょうげんじょうじゅ) >

・・・・・ ただ端的の霊跡(れいせき)清掃の行持(ぎょうじ)の実行となった時に
・・・・・ 平常ならば 何の変哲(へんてつ)もなく聞(きこ)えたであろうところの
撃竹(きゃくちく)の音が契機となって絶対渾然の絶対把握が成就したのである。
茲(ここ)に 「 行(ぎょう) 」 の力を 吾々は見逃してはならないのである。

書物に書いたり絵に描かれた餅(もち)では 腹はふくれぬ。
併(しか)し 本当の餅であっても ただ食膳に置いてあるだけでは 腹はふくれぬ。
それを実際に腹中(ふくちゅう)に運ぶところの 「 行 」 の力によって、
食物(しょくもつ)が食物としての実相を顕(あらわ)すのである。

だから、私は 常に経典(きょうてん)の読誦(とくじゅ)と、
神想観(禅定ぜんじょう)と愛他行(あいたぎょう)(自他一体行)の三つの実行を
悟(さとり)に到(いた)る三正行(しょうぎょう)として勧(すす)めているのである。

そう云(い)う 「 行 」 の力によって 悟(さとり)に達した香厳和尚(おしょう)が
提示した此の「上樹」の公案であるから、その意図を看破(かんぱ)して解(と)かねば
ならぬ。・・・・・

・・・外界(がいかい)の進退(しんたい)両難(りょうなん)は、心の世界の
進退両難の反映(はんえい)でしかないからである。・・・

・・・机上(きじょう)の閑空想(かんくうそう)の葛藤(かっとう)であるからである。
葛藤 本来なく 進退両難 本来なし であるのに、わざと わが心で葛藤を作り、
進退両難を為(つく)っているからである。

「 口に樹枝(じゅし)を啣(ふく)み、手に枝(えだ)を攀(よ)じず、
脚(あし)に樹(じゅ)を踏(ふ)まず、樹下(じゅげ)に 人(ひと)あって
西来(さいらい)意(い)を問(と)わんに・・・ 」 と云うのが、
何故(なにゆえ)に 進退両難であるか。

手が枝に触れなかったら、みずから能動的に手を動かして 枝を握れば
好(よ)いではないか。枝を握って 口を離して、さて それから 祖師(そし)西来
意に 就(つい)て応答すれば好い。

何処(どこ)にも 事実上 進退両難は ないのである。
進退両難の原因は 「 手は 枝を攀(よ)じず 」 と自分自身 本有(ほんぬ)の
自由自在の力を限ってしまったところにある。

それは 白墨(はくぼく)の線を自分を縛る綱だと思って 身動きの出来ないような
自己暗示に陥(おちい)った鶏(にわとり)の不動(ふどう)金縛(かなしばり)と
同じことである。

不動金縛は 自分の心の中に在る。心から不動金縛を取去(とりさ)ったとき、
吾々は いつでも 進退両難の窮境(きゅうきょう)から脱却することが出来るのだ。
何故(なぜ)なら、進退両難の窮境は実相に於ては‘無い’ものであって、
唯(ただ)空想の中にのみ存(そん)するものに過ぎないからである。

『 無門關解釋 』 ( 61~65頁 ) 谷 口 雅 春  先 生


< 参考 >
【 鶏の不動金縛 】
「 白墨(はくぼく)の線も 自分を縛(しば)る綱(つな)だと思えば動けなくなる 」

谷 口 雅 春 先 生
『 生命の實相 』 ( 新編版 第4巻 実相篇 光明の真理 下 32~40頁 、頭注版 第2巻71~76頁 )




実相と調和した念 を起こすことが 本当の祈り

2017-01-09 14:22:55 | 今日の光明法語
感謝の祈り、自然に実相の流露(りゅうろ)する祈り

祈る必要も何もない、そのままで人間は神の子であり救われているのに
なぜ祈るかと申しますと、先刻 申しました実相に調和した念を起こすためですが、

いっそう進むと自分が神の子である円満完全な実相を悟ると自然にありがたくて、
それを唱(とな)えずにはおれなくなる。

そういうぐあいの祈り、仏教ならば常住坐臥(じょうじゅうざが)の念仏というものにならないと
本当の祈りではないのであります。


谷 口 雅 春 先 生
頭注版 『 生命の實相 』 第 30 巻 聖典講義篇 山上の垂訓の示す真理 243頁