『 人生は螺旋型に展開する 』
人生は山あり、谷あり。
堂々巡りのようでも、
螺旋階段を横から見たように、
実は上昇している。
地道な努力の歩みを止めてはならない。
反復上昇をイメージして、一段一段、登っていこう。
人生・・・
努力・・・
上昇・・・
それには“地道=一段一段”なんですね。・・・
ポイントは、『よかったと喜び過ぎず、悪かったと悲嘆せず、』
このポイント地道に大事だと思います。(@_@)
(過ぎたるは及ばざるがごとし・・・うまくいったモノですね)
ちょっと寄り道(過ぎたるは・・・を検索してみました。)φ(..)メモメモ
過ぎたるは、なお及ばざるが如し
何をするにも、いき過ぎになっていると、それがどんなに良いことでも、
むしろ不足ぎみや、不満足な状態と変わらないのです。
過度になってしまうようであれば、むしろ控え目にしている方がよろしいようです。
孔子の高弟に子貢という人がいました。彼はなかなかの人物でしたが、人物評が好きで、孔子はややもてあまし気味のようでした。
あるとき、子頁は同門の2人を比較して、「どちらが賢明ですか」と尋ねました。
孔子が「A氏の方は度が過ぎているし、B氏の方はやや不足ぎみだ」と答えると、子貢はすかさず「すると、A氏の方が優れているのですね」と重ねて尋ねました。
これに対する孔子の答えが、「過ぎたるは、なお及ばざるが如し」だったのです。
子貢はもちろん、学問がよくでき、しかも頭の鋭いA氏の方がB氏より優れているという返事を期待していたのでしょうが、孔子は期待に反して、「おなじようなものだよ」と答えたのでした。この返事のなかには、ものごとはなんでも、行き過ぎの状態よりもむしろ、つつしんだ方がよいという暗示がこめられています。とりかたによっては、子貢の才気を押さえるための言葉かも知れません。
実際の生活のなかで注意してみると、やり過ぎや度を超した美点がかえってマイナスとなり「真面目すぎる」「正直すぎる」「賢すぎる」などと言われている人がみられます。
それぞれについて考えてみましょう。
まず、「真面目すぎる」ですが、世間には「真面目人間」という類型の人間像があります。
「他人の言うことをまともに受け止め、一生懸命やっていれば、それでよい」と考えているのです。
毎年新入社員を迎え、教育し実社会に適用させるのが難しいのは「真面目人間」あるいは「清廉潔白型」だったことを思い起こします。
真面目で一生懸命やる人は、仕事が順調にいっている場合はいいのですが、上司と意見が合わなかったり、自分のミスで失敗したときなどに、ひどく悩み落ち込んでしまうことが多いようです。「やや余裕を持った真面目さが、社会生活を送るのに必要」といえましょう。
また、真面目なことは美徳ですが、あまり真面目すぎると、はためいわくになることが、少なくないようです。
さらに、問題なのは「賢すぎる」ということではないでしょうか。
「賢明である」ということは人にとって大切な長所であり、人間としては是非とも賢くなりたいと願うのも当然といえます。
しかし、賢さを真に生かすのはなかなか難しいようで、下手に、賢さを振りまわすと、「小賢しい」ということになり、これも人間関係を損ないます
ちょっと寄り道がだいぶそれちゃいましたね(笑)
ただ・・・
過ぎたるは、なお及ばざるが如し
その由来?がわかりました(笑)
私のイメージでは、そのやや余裕を持ったという部分が大事!?なのかなぁって
それが“ゆとり”であり・・・
それこそが“生きる力”なのかなぁって思います。(@_@)(勝手な解釈ですが(苦笑))
それには・・・
いろいろな経験値が必要なのかなぁって思います。特に失敗の経験値が◎ですね。
生命にかかわるモノでなければ、後で笑い話に出来るようなコトであれば・・・何でも?
まさに過ぎたるっていう事でなければ、失敗や試練って有り難いことなんですね(@_@)