キーシンのピアノでショパンのPf協奏曲第2番を聴いた。先日のLang Langの印象が強く、どうしても比べてしまう。ピアノの音色に関しては曲(作曲家すら)もホールの違いもあるし、座席の違いもあるので一概には言えないが、キーシンの音色は少し神経質な感じ。そういう意味ではショパンに向いているのか。Lang Langのイメージはショパン(曲というより人となり)とは重ならない。平野啓一郎の『葬送』に相当毒されているのかもしれないが。
協奏曲を弾いている時のキーシンはまるでサイボーグのようであった。体→腕→指先までの神経が非常に綺麗に統制されていて、思わず真似たくなる。こうやって弾いたら、今まで弾けなかった曲も弾けるようになるのではないかと錯覚するほどだ。ただ、サイボーグ、という言葉が出る理由には、どことなくぎこちない、という印象があるからだ。
アンコールは同じくショパンのスケルツォ。これは思い切り自由な演奏-これがショパン?という程の。ショパンが作曲していた頃には、まだ現在のピアノは出来上がっていなかったはずだから、ショパンはこんな風に自分の曲が弾かれるだろうとは想像できなくても当然だろうけれど。キーシンがこんなにミスタッチを気にせずに、がんがんと弾く人だとは思わなかった。昨年6月に聴いた時と比べても違うような気がする。サインを貰いに行ったときの対応も、以前と比べてなんだか堂々としている。
知人夫妻に紹介されて購入したCD(モーツァルトのPf協奏曲20番、27番)では、キーシンはなんと弾き振りをしている。あのシャイに見えたキーシンが「指揮」?ちょっと俄かには信じられない-昨年バービカンでキーシンを見たときには、この人は一生変わらないのではないかと思ったけれど、キーシンも変わるのだ。私も変われるかな?
ショパンのPf協奏曲のほかは、最初がスークのファンタスティック・スケルツォ。これは初めて聴いたが、とてもよい演奏だったように思われた。曲自体も興味深い。最後のドボルザーク交響曲第9番は、最初こそ面白く聴いていたのだけれど、だんだんつまらなくなってしまい最後は拍手もそこそこにキーシンのサイン会に向かってしまった。ま、Gustavo&ウィーンフィルの同曲を聴いた後では仕方がないか。
なお、指揮者のネーメ・ヤルビは、とっても所作の面白いおじ(い)さんで、この人と一緒にカラオケかクラブに行ったら、すごく面白いことになりそうに思われた。一度誘ってみようかしらん?