モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

賜物

2020-11-17 06:11:34 | 教義と聖約
「信仰をもって、正直な心で…願うならば…一つの賜物を持つであろう」教義と聖約11:10

神から与えられる賜物として、どのようなものが与えられているでしょうか。
その賜物に気付いていない人は少なくありません。

このように書いているわたし自身も、
与えられている賜物に気付いていないことがまだまだあると思います。
周りの人から教えられて気付くことはよくあるものです。

例えば、毎朝このブログを書いていますが、これも与えられた賜物と感じています。
「わたしは…光であり、わたしの力によってこれらの言葉を…与える」教義と聖約11:11

ほんの小さなことですが、この言葉の通りの祝福を、
毎朝感じられることは、感謝であり、喜びです。
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悔い改め

2020-11-16 05:36:49 | 教義と聖約
「この時代の人々には、悔い改めの他に何も語ってはならない」教義と聖約11:9

主の教えはすべて‟人に悔い改めを勧める”ためのものです。
もしも教えが‟悔い改めを勧める”に至らなければ、
それは主の御心にかなうものではないかもしれません。

‟主に従い、悔い改めようとしている”人は主の言葉を喜び、
”主に従わず、悔い改めようともしない”人にとっては耳障りなものとなるようです。

福音に喜びを感じて、へりくだる心で受け入れるのは前者であり、
心をかたくなにし、苛立ち、否定するのは後者です。
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永遠の命

2020-11-15 05:53:23 | 教義と聖約
「永遠の命を持つ者は豊かである」教義と聖約11:7

「わたしは無窮であり…無窮とはわたしの名、…永遠…とは神…である」教義と聖約19:10~
そうであるなら「永遠の命」とは「神の命」であり、
それは‟神として生きる”ことを意味することになるのでしょうか。

あまりにも偉大過ぎて、その意味を理解することさえできませんが、
‟富”という言葉をはるかに超越したものであることは確かです。

この世にあるものを欲しいままに手にすることと、
現世に存在する全てを創造した神と同じように生きることと、
比較することさえ無意味に思えます。
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祈りの意味

2020-11-14 06:07:35 | 教義と聖約
「あなたは求めたので、見よ、わたしはあなたに言う」教義と聖約11:6

わたしたちは神に祈り、神はその祈りに応え、
わたしたちは与えられた教えについて考えます。
そして思い付いたことについて、再び祈る…

福音と出会って以来、それを延々と繰り返しています。
それは祈りの目的であり、意味であって、神と会話することです。

親子の会話のように、生まれたばかりの赤ちゃんは
親の言葉を聞き取り、理解することができず、求めるばかりですが、
成長するにつれ、親の言葉と思いを理解できるようになり、
やがては対等に話し合うことさえもできるようになります。

親はそれを見て、子供の成長と、子供と共に生きて行けることに喜びを得ます。
子どもにとってもそれは喜びであり、互いの幸せをもたらします。
それは神とわたしたちとの関係でもあります。
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大いなる驚くべき業

2020-11-13 05:52:17 | 教義と聖約
「大いなる驚くべき業が、まさに人の子らの中に表れようとしている」教義と聖約11:1

ジョセフ・スミスに天父とイエス・キリストが訪れ、福音が回復されたこと、
神の教会が存在して、神の業が進められていること、末日の預言が成就しつつあること、
これらは確かに「大いなる驚くべき業」だと思います。

しかしわたしにはあまり実感がありません。
偉大な出来事ではあるのでしょうが、想像できる域を超え過ぎていて、
教えられたままに受け入れるしかないというのが正直な気持ちです。

わたしにとって「大いなる驚くべき業」は、
わたし個人に主の御霊が下り、祈りの応えが与えられ、主の導きが見えることです。
その現実を考え、またこれまでを振り返るときに驚きを感じます。
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