モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

神を第一にする

2020-01-11 06:31:16 | 福音について
「まず神の国と神の義とを求めなさい」マタイ6:33

わたしのノートにはあちらこちらに教会の子どものいたずら書きがあります。
それが目に入る度に子どもたちのことを思い出して、幸せな気持ちになり、
彼らのために何ができるだろうと考えてしまいます。

「神を第一にする」ことはこれとよく似ています。
神を愛するほどに、知るほどに、世にある色々なことをを見て神を思い起こし、
幸せな気持ちにもなり、自分には何ができるのだろうと考えます。

子どものいたずら書きを見て苛立ったり、神を思い起こして苛立つ人もあるでしょう。
「なぜそのような気持ちの違いが生じるのか」不思議に思えるかも知れませんが、
恋愛の経験に例えるのが一番分かり易いかも知れません。

神への愛があるなら、自ずと人生の中で「神が第一になる」ものです。
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十字架を負う

2020-01-08 08:51:49 | 福音について
「わたしについて来たいと思うなら…自分の十字架を負うて…従って来なさい」マタイ16:24

汚れたガラスをきれいにするのは大変ですが意味があります。
きれいなガラスを拭くのは楽かもしれませんが意味がありません。
意味のある生き方と意味のない生き方、どちらかを選ぶでしょうか。

苦しみを望むわけではありませんが、その苦しみに勝る価値があるなら、
自らの意思で覚悟して苦しみに立ち向かうことも一つの選択肢です。
「自分の十字架を負う」とはそのことを意味します。

希望を持たず、覚悟もないままに生きることに喜びはあるのでしょうか。
楽な生き方かもしれませんが、そのような生き方に幸せはあるのでしょうか。
幸せとは「何かを成し遂げるために努力する」ときにあり、そこには苦しみも伴います。

そこに「価値ある希望」があるなら、その苦しみは喜びをもたらしてくれるものとなります。

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価値

2020-01-07 06:36:08 | 福音について
「主は待っていて、あなたがたに恵みを施される」イザヤ30:18

主は人に「恵みを受ける備え」ができるのを待ち、備えができると恵みを与えます。
主の恵みに価値があると信じる人は、その恵みを受けるために喜んで犠牲を払い、備えをします。
その価値を信じない人にとって、福音に価値はなく、戒めは人を拘束するものでしかありません。

聖典を学ぶときに与えられる啓示を愛する人は、喜んで聖典を読み、研究します。
戒めに従うことによって得られる守りを知る人は、自ら進んで戒めに従います。
悔い改めによって得る平安を経験した人は、自分の中に悔い改めるべきことを探します。

「わたしについて来たいと思うなら…自分の十字架を負うてわたしに従って来なさい」マタイ16:24
主に従うことは、そのことによって受ける苦しみよりも価値のあることでしょうか。
その価値を知る人だけが「自分の十字架を負う」ことができます。

「珊瑚も水晶も言うに足りない、(主の)知恵を得るのは真珠を得るのに勝る」ヨブ28:18
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する → なる

2020-01-06 06:25:03 | 福音について
「主を信頼する者は豊かになる」箴言28:25

「福音を生活に取り入れようと努力‟する”」のは善いことですが、
その目的は「生活が福音に沿ったものと‟なる”」ことです。
「する」間は苦労も悩みもあるでしょうが、「なる」時にその努力は豊かに報われます。

「決心は日々の行いとなり、日々の行いは習慣となり、習慣は人格となる」
日々の行いは「する」努力であり、習慣は「する」から「なる」への転換期、
「なる」とそれは人格となり、すべてがそれに従います。

「謙遜になろうとすること自体が謙遜ではない」
「謙遜になろうとする」のは善いことです。
本当の謙遜とは人格であり、すべての言動、思いも、謙遜という人格に従います。

福音の目的は「イエス・キリストのように‟なる”」ことです。
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あやまち

2020-01-05 07:45:26 | 今日の一言
人はあやまちの経験から学ぶ



不幸とは、あやまちを受け入れられないこと、
あやまちを正してくれる人がいないこと、
その責任を放棄した親に育てられる子どもかも知れません。
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