モルモンの泉

個人的に信じていること、感じていることを書いてみました。
気楽に目を通していただけるなら幸いです。

総大会より 12月26日

2024-12-26 05:54:38 | 総大会
「福音の原則を生活や家庭に取り入れるために行う“一貫して意識的な努力”を通じて、家族を強めることができます」
(イエス・キリストに結ばれて地の塩となる ティシェラ長老)

わたしは家族も含めて、他の人に福音を強いるほどの信仰がありません。
自分が福音に従うだけで精一杯です。

それでも家族を強めることができるでしょうか。
わたしはそう感じています。

それ以上のことはできないし、それ以上のことは福音をゆがめてしまうような気がします。
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総大会より 12月25日

2024-12-25 06:29:42 | 総大会
「神殿には、イエス・キリストを信じる信仰の真髄と、主に対する献身の精神があります」
(イエス・キリストに結ばれて地の塩となる ティシェラ長老)

クリスマスは12月24日の夕方から25日の夕方までなのだそうです。
ということは、今クリスマスの真っ最中です。

「イエス・キリストを信じる信仰と主に対する献身の精神」があれば、クリスマスは特別なものになると思います。
ついでに、日々の生活にその精神があれば、人生も特別なものになります。
聖餐も神殿も特別なものになるはずです。

そうは思いませんか?
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総大会より 12月24日

2024-12-24 06:00:10 | 総大会
「舌を制しうる人は一人もいない…わたしたちは…主を賛美し…その同じ舌で神にかたどって作られた人間を呪っている。同じ口から賛美と呪いが出てくる。」
(謀反に使う武器を埋める クリストファーソン長老)

教会で主の聖餐を受け、礼拝します。
そのすぐ後に、同じ場所で、不平不満や批判が聞こえてくることがあります。

それを見た人が言いました。
「ここは本当にイエス・キリストの教会ですか?」

「わたしの兄弟たちよ、このようなことはあるべきでない」
…だそうです。
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12月23日

2024-12-23 06:30:10 | 総大会
「能動的・受動的」 その5

「福音は自由意思を教えているのに、なぜ戒めが強制されるのですか?」
時々、そんな質問を聞きます。
戒めを押し付けられている(させられている)ように感じるのかもしれません。

このように考えてみてはどうでしょう。
主を信じて従うかどうかは人それぞれの自由です。
主に従いたいと望む人が教会に集います。
福音の教えと戒めは教会に集う人のためにあります。

もしかすると「主に従いたいと思うか?」時点の問題ではないでしょうか。
思わないなら、押しつけに感じられるかもしれませんね。
その願いがあれば、教えや戒めだけでなく、祈りも、モルモン書を読むことも喜びになると思うのですが、どうなのでしょう。

もう一度繰り返します。
主を信じて従うかどうかは人それぞれの自由です。

なんて言うと、「戒めを重荷に思う人は教会に来ないでください」なんて聞こえそうですね。
そんな誤解のないように、一言添えておきます。
「戒めを守らなくてもいいので、どうぞ教会に来てください。
そのときだけでいいので、秩序を守っていただけるなら、わたしたちは歓迎します。
“主に従いたい”と願う気持ちが生まれるとき、戒めも教えも喜びに変わります。」
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12月22日

2024-12-22 08:27:02 | 総大会
「能動的・受動的」 その4

「こうしなければならない、こうするべき」と聞くことがあります。
なんだか大変そうですね。
忍耐と試練を感じてしまいます。
非難するつもりはありません。
それが必要なときもありますよね。

自らの望みによって「こうありたい、こうしたい」と思えたらどうでしょう。
なんだか希望がありますよね。
忍耐も試練も、大変さも変わらないかもしれません。
それでも心は少し違っているのではないでしょうか。
もしかすると、祝福も少し違ってくるかもしれません。

皆さんは「どうありたい」と思いますか?
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