風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

コミュニケーション

2009年11月27日 09時12分04秒 | エッセイ、随筆、小説




夜中に、それは日本時間のことなのだが、
午前2時半から「コミュニケーションについて」のサブジェクトで、NY在住の俳優と盛り上がる。

「ねえ、どう思う?」と私。
「日本人とかガイジンとか・・・・が理由でも問題でもなくてさ」と続けた。
掘り下げた会話の出来ない人たちが私にとって苦手になったのは、おそらく障害を持つ以前の、
いつからなのだろう?と過去を振り返ったとき、ひとりの男の顔が憎たらしく浮かんできたので、
ちくしょーと心の中で叫ぶ。

「あのね・・・」と私。
「好きだと言ってくれる人がいるの。でも、すごく年上なの。歳なんてただの数字だからいいんだけど、
問題はさ、私が元気な振りを装っていることにまったく気付かないというか、甘える隙間がないというか、
障害に負荷をかけると本当に治ると信じ込んでいる人でね、
それから私の話を遮って最後まで聞かないの。でも、自分のことは余計なものまで話す。
おしゃべりな男が苦手ってことなのかしら?」

友人は「シェアが出来ないことに不満があるんだよ」と言う。
もし片方が問題を抱えていた場合、問題なんて障害だけではなく、ごくごく一般的に、
誰にでも当然のようにあるものだよ。
でも、それがシェアできない。
自分の話は聞いて欲しいという欲求だけが先走っていて、
自分の都合で世の中をまわそうとしていて、好きだという気持ちは嘘ではないだろうが、
だからといって相手に寄り添うとか、相手を受容するとか、そうしたことが抜け落ちているんだよね、
ずいぶんと年上の彼であっても」と。

私が有難いと思うのは、私の障害を告白した友人や知人たちの多くが、
障害を理解するために専門書を買って勉強してくれている温かな行動に目頭が熱くなる。
でも、一番理解して欲しいと希う人は私の話すら耳を傾けようとはしない。
毎日、莫大な時間を共有しているというのに、医師会に参加すれば嫌味を言われ、
障害の質問をされるので、返答していると、なにが言いたいのかわからないとの一言で、
それが失語症だと認識されるまでもなく、一方的な視点で、話が支離滅裂だ、で終わってしまう。
でも違う。
私は一生懸命に話をしているし、それを聞こうとしない姿勢にこそ問題があるのだと思う。

なにを話すわけでもなく、聞きただすことに時間を浪費するわけでもなく、
ただ傍にいて、寄り添ってくれるだけで人って温かな気持ちになるものだよね、と友人は言う。
それはナショナリティやオリジナリティの問題ではなくて、
最終的には人間の本質という領域に行き着く話だと思う。
難しい話ばかりを毎日しろとはいわない。
けれど、現実を無視した話題ばかりでは、その人がいくら社会的に偉い立場だろうと、高齢だろうと、
人間としての薄さが露呈してしまう。

自分が決してぶ厚い人間ではない。
が、その薄さというぺらぺらなものなど、私が希求する友人や知人ではないのだとも思う。
意味のない言葉がただ空中に舞い上がるだけで、私の心には、内側には入っては来ない。
「コミュニケーションはふたりの人間が存在して成立するものだと知らないのかもね?
間合いや距離感や時期やタイミングなどが絶妙に絡み合うことで、心地よい音色が生まれる。
もしかしたら、そうした経験に飢えていたか、乏しいか、
だから、話を聞いて欲しい・・・という欲求が抑えられないのでは?」

シェアの出来る人とならば、いくらでも付き合いたいと思えるのに。