戦争孤児だった6歳の一郎が菊治にひろわれた。
新宿の大ガードを「角筈」と呼ぶころ。
西口は貯水場で、東西に闇市が広がる。
「男なら高いところに登って、世間を見下ろすものだってよ」
だから50年もかかってマンションの最上階を手に入れた一郎。
ガード下に跪って、世間の人をみんな足元から見上げながら
お愛想を続ける天職の菊治。ずっとそのままでいいと言う。
おやじもおふくろも知らない一郎の記憶は、菊治の顔からはじまる。
そして菊治は南方でひでえ戦争を経験し、
輸送船が沈んじまったときに海を漂っている間に重油で目をやられた。
喉も焼かれちまって、あんなにしわがれ声になった。
その声で「頼みの綱は、おまえだけなんだ」と一郎は言われ、
大金持ちになって楽をさせておくれ―
ずっとその言葉を誤解してきたことに気付かされる。
頼みの綱とは「世間の役に立つ」、
世間の役に立つことは人を幸せにするこった。
人を幸せにするこった、間違っても戦争なんぞできない。
そういうこった。
「世間のせいにするな。他人のせいにするな。親のせいにするな」
「でもおいらのせいじゃないよ」
「いいや、おまえのせいだ。男ならば、ぜんぶ自分のせいだ」
男ならば自分のせいにするこった。
それじゃなければ男として認めねえ。
そこからしか男としての人品が生まれねえってこった。
男の話ばかししたが、おそらく女も例外ではない。
なぁ、菊治さん、そうだろうよ?
他人の尻まで拭って一人前ってもんだろう?
そんなことをわざわざ言葉にゃしねえ。
なぁ、菊治さん、自分のせいにできねえ奴は信用ならねえってもんだ。
角筈を染める夕日、靖国通りは今日も渋滞している。
※文中、「シューシャインボーイ」引用
短編集「月島慕情」(文藝春秋社)はどの作品を本当に素敵なので
どうかご一読を。
今を静かに語り問う各作品が、読者の胸には響いてくるのだと思います。