風の生まれる場所

海藍のような言ノ葉の世界

空や雲や海や星や月や風との語らいを
言葉へ置き換えていけたら・・・

澪標

2007年07月24日 10時16分48秒 | エッセイ、随筆、小説






「澪」は「水脈(みお)」とも書くように水脈のこと。

海や川の深いところで、船が行き来できる水路のことです。

それを知らせるために目印として立たせた杭のことを

「澪標」と呼びました。

「身を尽くす」という言葉に掛けることができるので、

和歌にもよく詠まれています。    


美人の日本語 著者山下景子(幻冬舎)より




それは「深い河(遠藤周作)」の読後感のようでもあり、

運命を甘受する意味深いメッセージのようでもありました。

彼は小さな頃から文学だけが志となり、

私はといえば、その問いから話題を逸らすことだけで精一杯でした。



その方は言います。

この世の中で起こる問題のすべてが実直に実務的に解決できる、と。

一方、文学はこの世の善悪や倫理や思想を超越した異界のもの。

そこに一歩踏み入れると高揚感と共に肌寒さを感じる領域だ、と。



私はその返信に「胎児のときの記憶」というタイトルをつけ、

魂の階級についての話をしました。

文学の、というよりもむしろ人間として生きていくために

人間という容れものに何が片付けられているのかについてを

主題に置きました。




歴史が・・・などというつもりはなく、

また絶望的な見解で世の中に籍をおいているつもりもありません。

それが人間の姿だというだけのこと、

つまり、人間の本質とは慈悲や残酷さが同じ容れものの中に収められ

例外なく「私」にもそれらが存在しているという事実との対面。

そのために、私は未婚の母になり

NY同時多発テロや交通事故やインドでの療養が必要だった、と。



それは漠然と抱き続けた疑問への解答でした。

胎児のときの記憶があると告白する背景には、

母の、私を身篭った際の感情が、血液循環経路を伝い、

体循環や肺循環に介在し、溶かされた感情が全身に行き渡る。

それが今の私を形成する、血や肉や骨の原点なのです。



おそらく人間として生を受けた時点で、

闇を知らないものなどいないでしょう。

世の中の闇に絶えず触れ崩れないために、

女の身体には子宮があり、それこそが闇そのものではないか、と。

男も女も闇の中に注入されたものから息をはじめるのです。



男女の役割とはきっと、

その闇へ手を伸ばすことではなく、

寄り添い、肌を重ね合い、語り合うことではないでしょうか。

愛し合うとは、容れものである体などは問題ではなく、

人生や心や魂を愛撫することだと私は考えるのです。



その闇を昇華したものこそ文学であり、

実社会において健全な光を投射してさえすれば、

闇を抱えていてもかまなわい。

ただし、心の闇を実社会の人間に語るわけにはいかないのです。

ともに実社会を遊離し、はるか天空を舞いながら、

文学を語る相手が必要だと思うのです・・・・・・



水脈となる自分に、

身の尽くし方をふなみちを教え、

それを決して私が希求する側ではない現実。

時熟が核心に触れさせるために、私を手招きする。

手を振って、まるで澪標のように・・・・・











最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。