医療を必要とする身になって久しい私が、同時に医療不信に陥っていった。
今まで風邪もひいたことがなく、さして薬を飲んだ経験のない私だったが、
ここまで深く“医療と関わる”とは思っていず、
深く“医療を考えさせられる”とも予想していない事態だった。
一度、不具合を抱えてしまうと、社会から放り出されてしまう現実を知り、
社内では自分の机脇にベッドを置いて、寝起きをしながら仕事を継続する以外、
収入を得る方法がなかった。
収入がなくなるということは、娘を路頭に迷わす。
と同時に、いつ支払われるかわからない医療費の立替すら、できなくなる。
それは、生きながらにして死を意味する。
被害者なのに、次々と人生を突きつけられていく毎日に、
この世の不条理を味わい、それが通り過ぎるのをひたすら待つ以外、
道がないことを思い知った。
日本でも屈指の、某大学病院から連絡が入った。
医療者と患者という関係においては、否が応でも患者は“弱者”になってしまう。
弱者となった私は、すでに自分の力では歩けず、呼吸すら困難な状況でありながら、
診察室から追い出される羽目に。
「わからないので、他病院で診てもらえ」と。
実際には病院から締め出しをくらったかたちになった。
そして、私は車椅子に座ったまま呼吸困難を起こし、
その病院の救急に運ばれ、若い医師たちに救われた。
もちろん、憤りを感じなかったわけではない。
怒りも、敵意も、普通の人間と同様に感じ続けてきた。
が、対立ではなく共存の道がないものかと模索する中で、
医師たちの置かれた厳しい現実、
また、不調を抱えた上で生きざるを得ない者たちの間には温度差があり、
それをどうにか埋めることができないのか、と考えるようになった。
それは現主治医である医師のひとこと、
「あなただから許すことができるのだ」という励ましであったし、
盟友の「容赦」という言葉が、私の血や骨や肉となって、
私の鎮魂を手助けしてくれた結果となって、今に至る。
大学病院からの連絡に話は戻るが、
詳細を話し、それに異論がなければ、私は今後、一切の連絡は必要ないと伝えた。
が、事実関係を再度調査し、誰が考えても医療機関が行う行為でなかったと思うのであれば
今後の医療のために、今の、これからの医師や患者のために
お互いにとって共存できる道の模索、最善を尽くしましょう、と言って受話器を置いた。
ここまでは長い道のりだった。
そして、ひとりでは歩めない道でもあった。
深謝