書評 浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか 島田裕巳 著 幻冬舎新書2012年刊
前回のブログでカソリック宗教結社のオプス・デイを取り上げたのは今回この書評を書こうとしていたことと関係があります。日本の仏教は古墳時代が明けた奈良時代からの歴史があり、多くの宗派がある割りには日々の生活の上では多くの日本人にとっては「だからどうした」という程度の関心しかありません。この本は日本の仏教について極めて網羅的に要領よくまとめて、その歴史や分かれていった過程、民衆に広まった所以などを解説した良書だと思います。表題の「浄土真宗はなぜ・・」は読者を日本の仏教史に引き込むとっかかりであって、浄土真宗のことだけを述べた書物では全くありません。
ところがこの本、読みやすくまとめてあるのでスイスイ読めるのですが、読み終わった後何が一番印象に残ったかが良くわからない。日本仏教の源流が南都六宗と呼ばれるような奈良、一部京都の仏閣にあって、その時代は葬式仏教ではなかったからそこには直接信者の墓はない。その後法華経、密教、浄土教、禅に大きく分かれて各人が菩提寺というものを持つようになって、家としての墓を神社でなく寺に持ってゆくといったことは理解できます。我が家は曹洞宗(家内の実家もたまたま同じ)で暫く実父の墓が寺の敷地内にあった関係で曹洞禅的な考えも多少理解はしていましたが、この本を読んでもなるほどと膝を打つような感慨がないのは葬儀を除いて、日々の生活に仏教的な要素がなさすぎることが原因ではないかと思われました。宗教的な要素ということでは曜日や大安などの縁起の概念、大して気にはしませんが方角などけっこう生活に入っているように思いますが、それは仏教というよりも古来の神道や道教の概念が混在していて純粋な仏教的思考で物事を考えることが殆どない、というのがピンとこない原因だろうと思われます。
仏教では悟りを開いて極楽往生することが最も価値があるとされるのですが、輪廻転生の思想がある我々は必ずしも極楽往生しなくても次も人間界で修行すればよいか、まあ餓鬼道や地獄には行きたくないけど、くらいにしか考えていないと言えます。一神教の世界では自分の人生は神との一対一の契約によって規定されるのでもう少し厳しい(ある意味周りの人々との協調とは関係ない)考え方になるかも知れません。しかし「なんちゃって仏教徒」の我々は日々の生活を悟りを開くための修行とは考えていません。死んで戒名をもらって初めて出家する形になりますが「仏さん」と言ってもらうための方便に近いかもしれません。
餓え(飢饉)と病が日常的であった100年位前までは今よりも日々の生活がずっと苦しいものであり、また死というものがもっと身近なものだったので神や仏に救いを求める気持ちは今よりも切実であったことは想像できます。人々は今以上にずっと宗教的なことを念頭において日々生活していただろうと思います。その中で人々の信頼を得るには「救い」が容易に得られること、できれば現世利益に結びついていること、がその宗派が民衆に受け入れられる条件になったでしょう。戒律が厳しかったり複雑で覚えきれないようなものは民衆の心をつかむことはできない。その点「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることが極楽往生に結びつく浄土真宗や、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えることで利益が得られる日蓮宗は大衆仏教として受け入れられやすく、表題のように浄土真宗が日本で最も信者が多い理由になっているという説明に説得力が出ます。
題目を唱えて現世利益とつなげる新しい日蓮の宗派である創価学会は中小の事業者を中心に政教一致を掲げてかなり多くの信者を抱える宗派になりましたが、ある種オプス・デイや欧州のキリスト教系政治団体、或はイスラム教系の政治団体と同様の運動形態である点で国際的な面があるかも知れません。私は宗教を現世利益と結びつける考えには反対で、宗教は各人の心のあり方や生き方に生かされるべきだろうと考えているのですが、だからといって禅宗を日々の生活に取り入れて活かしている訳でもないので偉そうな事は言えません。ただ宗教的思考を日々の生活に取り入れずに生活している我々は世界の趨勢からはむしろ少数派かもしれないということを認識して世界を見るべきではないか、と書評からは少し離れた結論ですがこの本を読んで感じました。