アメリカはふだん論理的正当性を厳しく追及して、正義や国益を貫きますが、論理的整合性が成り立たない時は倫理的正当性、つまり「これは神から付託された行為」といった定義付けをして自国の主張を通します。結局自分のやりたいようにやるのですが、論理的正当性と倫理的正当性を使い分けて理由立てしている事に注目しないといけません。
第二次大戦に参戦するにあたっては「真珠湾奇襲」という「自国への攻撃に対する防衛」「自衛権の行使」という論理的正当性ができたために、選挙公約に反し、議会も厭戦的であったのにすんなりと戦争に参加できました。戦争が終わってみるとそれまでの国際常識に反する相手国への無条件降伏の要求、ドイツや日本への無差別爆撃による民間人殺戮、原爆投下など戦争には勝ったものの自分達の被害に比べて相手に与えた人道的被害の大きさに怖れをなして「米国が枢軸国を倒したのは倫理的に正しいことをしたのである」と強弁せざるをえなくなり、反ファシズム、民主主義を守るために戦争をした、という倫理的正当性を貫かざるをえないことになりました。結果、旧帝国主義諸国は戦勝国でありながら多くの植民地を失う(独立を認める)ことになったり、ソ連という社会主義的正義を対立軸として認めることになりました。
以降の朝鮮戦争やベトナム戦争では倫理的正当性を立証することができず、社会主義が広がるのを防ぐといった論理的正当性で戦ったものの、むしろ国内から倫理的批判が出る等散々な結果となりました。911以降の「テロとの戦い」ではaxis of evilという宗教的邪悪な枢軸という表現まで用いて、戦争の正当性が論理的なものでなく倫理的に神から委託された、損得を超越してやらねばならないもの、という定義付けが行われました。だからイラクへの攻撃理由が「大量破壊兵器の保持」という初めから嘘がばれているほど根拠の薄いものであっても議会やメディアは強く反対できませんでしたし、論理的正当性がなくなっても戦争を始めた為政者が責任を追求されることがありませんでした。
米国では、法や契約に対して非常に厳格な対応が要求され、それに反すると裁判で厳しく追及される一方で、進化論が学校教育でも否定されていたり、堕胎を行う医師を悪魔として射殺してしまうといった「宗教倫理」においては論理が通用しなくてもよい偏った社会であることが特徴です。だから論理で正当性が主張できない時は倫理的な正当性を主張する、論理と倫理を使い分けて自己の正当性を通すといったことが政治の世界でも行われているのです。
日本では終戦の8月になると毎年戦争の悲惨さや原爆の被害について毎年見直されてきましたが、その際米国のコメントを求めても「客観的な状況から原爆の投下や日本に終戦をせまる手順について検証しなおす」ということにはかたくなに抵抗を見せます。むしろそのような見直しは「価値観の変更を試みる不遜で倫理的に誤った行為」として攻撃されます。「倫理」で規定された歴史は「論理」で見直すことが許されない、という変な状況を日本も世界のメディアも「おかしい」と率直に言うことはありません。「倫理」と「論理」の使い分けで自己の正当性を通すとはこの事です。
さて、今回米国はシリアのアサド政権側に攻撃を加えるにあたり、「政権側が化学兵器を用いて無辜の自国民を虐殺している。」と証明はされなくてもそう主張することで「倫理的正義」を確立することはできました。しかし現段階でアサド政権側に攻撃を加えることが米国の国益に本当になるか、という所で今ひとつ確証が得られず躊躇しているように見えます。米国内にはアサド政権側をすぐにでも攻撃したい勢力があり、米国に攻撃の倫理的正当性が与えられるよう種々の手を打ってきたのでしょう。しかし一方で参戦に慎重・反対の勢力があって、オバマ大統領としても本音は参戦したくないのではないでしょうか。そもそも「論理的」にシリア政府はアメリカを攻撃する意図はなく、政府に対して武力で抵抗する反政府勢力を「テロ」とアメリカは定義していて、しかもアルカイダが参加しているシリア反政府勢力側にアメリカは加担できない理屈です。
シリア内戦が米英・中ロの対立、サウジ/イスラエル・イランの対立、アルカイダ・ヒズボラ・クルド人ほか各種イスラム勢力の代理戦争を呈してきている現在、火に油を注いでみたところで何も解決しない(もっと燃え上がるだけ)だろう、というのは第三者からみた正しい判断だと思います。唯一の効果的政策は両勢力を上回る大量の国連軍(米中露英仏)の駐屯による停戦監視だと私は思いますが。