書評 日本人の心のかたち 玄侑 宗久 角川SSC新書201 2013年刊
臨済宗の住職で福島県に在住し、芥川賞作家(2001年)でもある著者が、日本人の物事の決め方の特性について、荘子の斎物論篇にある「両行」という思想と、維摩経の不二の法門にある「不二」という思想からこれらが日本人特有のこころのあり方に影響していることを日本の古典や現行の作法、習慣など広い例証から論考したものです。
日本人は、基本的に二つの異なる思想を対立・選択することをせずにどちらも取り入れることによって新たな物を産み出すことを得意としている、ことから両行・不二という思想が導かれるのですが、これは和洋折衷であるとか、漢字と大和言葉から漢字仮名まじりの日本語体系を作ってきた日本文化を考えれば容易に理解できます。アンパンのように和菓子の餡とパンを共に生かして新しい物を作るのが「両行」ですし、善悪や生死のような対立・分別されるものを敢えて分けて考えずに同時にそのまま受け入れてしまう思想が「不二」にあたり、例えば健康であっても病気であっても構わずに自分のやりたい事や生き方を貫く境地は「不二」にあたるのだと思います。
この本を読もうと思ったきっかけは、私自身が先のブログでエッセイとして書いたように、日本人特有のエトスというのは一神教のユダヤキリスト教圏の人達とは異なり、しかも中国韓国のアジアでも大陸圏の人達とも異なると考えていたことと、僧侶である氏の考えが高齢者医療の問題点を解決する何らかのヒントを与えてくれるのではないかと期待したからです。
私が示した日本人の「善」を決定する思考法とは説明が異なりますが、著者は日本人の物の決め方の西洋人との違いを次のように説明します(115ページ)「(日本人は)人間の思考そのものを信用していないから、とりあえず両行する考え方を配しておき、結論は「無心」において「直感的」に決めるのである。ロゴスとキャラクター(論理と個性)に重きを置く国とは違っていて当然と言うしかないだろう。」「西欧の人々は初めにロゴスありき、と繰り返し学んできたせいか、人間の思考や論理にずいぶんと信頼をおいている。思考し、論理を操る主体は、無論「我」である。」(内はrakitarou注)この直感的に決める動機は論理を超えた「周囲との協調」や「バランス感覚」なのでしょうが、後付けでどのようにも正当化できるように相反する論理付けができるしくみが日本語にはあると説明します。例えば「善は急げ」と「急がば回れ」、「君子危うきに近づかず」と「虎穴に入らずんば虎児を得ず」のような相反する選択肢を正当化できることばが日本語には用意されていると言う事です。
高齢化社会になればなるほど日本の医療費は高騰を続けています。年をとれば種々の病気を併発し、また医療の進歩から以前であれば助からなかった病気も治療が可能になってきています。多くの病気を併発している人を治療するのは疾患が一つしかない人を治療するより当然多くの医療費と手間がかかります。医療費が無限大にあるのならばいくらでも手間をかけて医療を施す事もできるでしょうが、「もうこれ以上の医療費の高騰は無理」と政府は判断していて、総医療費を抑えるために単価を下げる政策を取り続けてきました。政府は「年寄りは死ね」とは決して言いません。でも本音は「高齢者の医療はほどほどにしてね。」と明確に政策上告げています。
一方で医療を受ける高齢者の方も限りなく医療を受け続けることに必ずしも幸福を感じていないように見えます。「年に不足はない」「余生だから」と言いながら毎日のように病院に通って十種類以上の薬を飲み続ける姿は「論理的には矛盾」していますが、「両行」や「不二」のなせる所と言えなくもありません。お年寄りは、恐らくは100万円かかるぞんざいな医療よりも、効果は劣っても1500円の心のこもった医療の方を喜ぶのではないかと思います。80台の人が50台に若返れる医療はありません。80台のまま一つの病気が癒されるにすぎず、すぐにまた他の病気が出てくるのであれば、一つの医療に莫大な治療費と患者の心身への負担をかけたところで大して幸福になることはないのは当然です。
効果は劣るけれどその分「心のこもった医療だから」というエクスキューズが得られるのならば最先端の高額医療を行わなくても満足が得られるのではないか、高齢者医療の問題解決の糸口はこの辺にあるのではないか、と私は思います。
著者は仏僧らしい視点から、「薬師如来と阿弥陀如来は両方揃ってこそ人間の安寧を保証する両行だったのである(83ページ)。」と医療、治療の権化(悟りを開いた仏)と死に向かう不安を和らげる仏を両行させる大乗仏教の形態を説明します。また日本人は死を終焉と考えず、身体から魂が黄泉の国に去る、いずれ黄泉返る(よみがえる)、或は弔辞などでも「先に天国でゆっくりとお休み下さい、私も後からまいります。」などと死そのものを認めない思想がある(46ページ)と日本人独特の死生観を説明します。他にも魂が肉体から離れる状態を「魂消る」(たまげる)と表現したり、魂が抜けた状態の肉体を「呆」や「惚」(ほうけ)と表現したりします。敵も味方も、善人も悪人も死んでしまえば皆仏様、というのも「不二」を実現した日本特有の優れた思想であり、誰でも死ねば仏になれるという安心感が死への不安をなくす知恵として育まれてきたと説明されます(怨親平等と和の思想170ページ)。
欧米では病院にも患者の宗派に応じた宗教家の出入りが心の治療の一環として行われていたり、病院そのものが教会によって運営されていたりして、死への不安やグリーフケアへの積極的な取り組みがなされています。日本の医療では診療報酬にそのような項目は皆無であり、病院内にもやっと緩和医療が癌治療や終末期医療に取り込む努力がなされているに過ぎません。私は治療のガイドラインが50歳台と80歳台で同じなのはおかしい、と度々主張していますが、米沢慧氏が提唱する「往きの医療」「還りの医療」の思想を取り入れた「高齢者の満足につながる医療」こそが「医療費の高騰」「高齢者医療問題」を解決するヒントになるだろうと思います。