rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

残念なNHKの在宅医療特集

2017-02-17 19:22:36 | 医療

NHKクローズアップ現代+(2017年2月17日)

 

病院から在宅へ、地域で総合的に医療・介護を行う、というのが現在の厚労省の方針です。それは医療費の高騰、介護を含む社会保障費の高騰、高齢化社会に国の財政、社会のヒト(医療従事者)を含むインフラが追いつかない事が明らかでこのままでは医療やケアの構造自体が破綻しかねないという逼迫した情勢があることによる必然的な対応策(これで解決できるかどうかは別として)です。

 

恐らく基本的な危機意識は国民全体誰も否定はしないと思います。しかし実際に在宅医療を進める段になると「あれが不満」「ここが足りない」とより多くの贅沢なサービスを求てしまって、結局「在宅は困難」といった結論が導き出されてしまうのが残念な所です。

 

在宅医療の基本は「在宅でできる事は病院で行わない」という一事です。逆に言えば「病院でしかできないことは大いに病院を活用する」という事にもなります。この番組の冒頭、昨年亡くなった大橋巨泉氏が在宅医から「どこで最期を迎えたいか」をいきなり聞かれてショックだった、という話から始まりましたが、私が主治医でも巨泉さんほどの人物ならばまず本人にどこで死にたいか直接聞いたでしょう。それが一家言を持つタレントで海外事業を展開する「巨泉さんの人となり」を理解して尊敬していれば当然取る医師としての態度です。終末期医療を診る上で最も基本となる事は、どのような最期を迎えたいか、最期の時まで自分らしく生きるにはどのような医療を受けたいかを本人の希望に沿って行うことだからです。それを「禁じ手」と言われてしまったら初めから在宅医療の敷居を思い切り高くされたように感じます。

 

その後の番組で「在宅医療の専門家が少ない」とこれまた在宅医療の敷居を高くする話が展開されて、患者の要望に答えられない医療は失格だという展開になります。私は近所のかかりつけの開業医であれば、誰でも在宅医療の担い手としての資格は十分にあると思います。1970年くらいまでは皆開業医さんはバッグ一つで往診をして、病院に行けない患者さんの在宅医療を行っていました。老衰で亡くなった高齢者の診断書も普通に書いていました。私の叔父は開業医でしたが、胃癌で亡くなる直前まで往診で患者さんの家に点滴をしに出かけたり、看取りをしたりしていました。80年代前半のことです。家で亡くなるのが普通であった当時の日本人が皆不幸であった訳ではないし、病院で亡くなる現在の日本人が皆幸福である訳でもありません。

 

在宅医療の敷居を上げるような報道はやめましょう、完全に満足の行く医療というのは「不老不死」以外世の中には存在しえないのです。つまりそのようなものはないのです。自分がどう生きたいか、最期はどうありたいか、という意思があって、それに沿おうとしてくれる医療があれば不完全であっても「満足」という答えを出さない限り、在宅医療を広げる答えは出てきません。今必要なのは国民の側が「どう最期を生きるか」という哲学であり、社会が希望に沿わないと悲観している限り幸福など永久にこないことを肝に銘ずるべきです。

 

古いインドの社会において、病気を治療する場所と死を迎える場所は別れていたと言います。映画化されたトルストイの「戦争と平和」でも冷遇されていたピエールが死に際の父親から財産を受け継ぐ際に、父親の脇にいたのは医者ではなく東方教会の牧師達(別れの儀式の最中)であったことが描かれています。本来、死に際しては医者の出る幕はないのであって、必要なのは死者を送る家族と宗教者であるはずです。日本の終末期医療は医療者への要望ばかりが議論されて家族や宗教者の関わり方が議論されません。日本人の死に方の議論が空虚なのはそのせいではないでしょうか。

 

先日日蓮宗の住職であり医師でもある方の講演を聴く機会がありました。その先生は自分の勤める病院に臨床宗教師の導入も積極的に行っていると言うことでしたが、まだ在宅においては臨床宗教師を入れるのは躊躇しているそうです。臨床宗教師は「布教をしないで患者さんの死と向き合う」が大前提なのですが、「まだ率直に言って在宅医療に関わることを完全に任せられる所まで来ていない」からであると仰ってました。地域における健全な宗教の関わりは、死生観や哲学を深め、在宅医療を進める上でも今後鍵になってくるように思います。

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