経済成長が0%であっても、現状と同じ状態が続くならば誰も不幸にならないのではないか、と誰でも疑問に思う所ですが、世の中は「経済成長」は絶対的な事項という前提で進んで行きます。それに対して異を唱える事は「問題外」とされるような雰囲気があります。
話題作「善と悪の経済学(東洋経済新報社2015年刊)」を書いたチェコの気鋭の経済学者であるトーマス・セドラチェクは、成長しすぎている時はブレーキが必要であるし、停滞している時にもそれなりの過ごし方、生き方を模索することで成長必須と決めつける必要はないのではないか、と「欲望の資本主義(東洋経済新報社2017年刊)」で述べています。私は「善と悪の経済学」読みたい所ですが、500頁を超える大作であり、まだ読めずにいます。
資本主義が何故「経済成長」が必須であるか、鮫のように泳ぎ続けていないと死んでしまうのか、について「資本主義の終焉と歴史の危機」を著した水野和夫氏は新著「閉じて行く帝国と逆説の21世紀経済(集英社新書0883 2017年刊)の中で「資本は常に蒐集する性質がある」事を歴史的に示し、「だから資本が蒐集できなくなると資本主義は終焉する」と説明しています。
これを私なりに解釈してみると、小額の貯金をする場合でも、貯金したら元金よりも減ってしまうのであれば誰も貯金はしない。銀行も最低でも手数料になる程度の利子を取らなければ貸し付けはしないものです(日銀のマイナス金利というのは常識破りですが)。資本家は投資をしたら損益合計すればプラスになる事を目標に投資するはずです。つまり「資本」のある所、必ず増加(蒐集)の方向にベクトルが向いていることは間違いありません。
経済全体の大きさが100として、その大きさが100のまま変わらなければ、初め10人の資本家が50所有し、50人の労働者が50所有して全体の経済が回っていたとしても、資本家の所有が「資本の蒐集」によって60になれば、必然的に労働者の所有は40に、90になれば労働者は10になってしまい、50人の労働者は初め1ずつ所有して売買していたのに終いには0.2の経済しか回せなくなって経済は停滞してしまうことになります。ここで50とか100を貨幣の単位としなかったのは経済成長=貨幣を増やす事ではないからです。
この経済の大きさ=貨幣の多さと考える事は所謂リフレ派と言われる人達の思想で、金融緩和をして貨幣をじゃぶじゃぶにすれば経済成長するという理論になるのですが、どうも実体経済の成長は伴わないことがこの10年くらいの間に立証されてしまいました。金融緩和をして投資をさせて、物を沢山作れば需要が増加するというのは「セイの法則」と言われますが、どうもこれは限られた条件(経済が成長する余地がある)状態でないと成立しないことが明確になりました。高度経済成長が終了してしまった西欧や日本などの先進国は、いくら金融緩和をしても仮想空間における信用経済が膨らむだけで、実体経済は成長しない、結果として一部の資本家に利用しきれない余剰貨幣が集まるだけで経済が回ることに貢献しなかったというのが現在の状況といえます。
水野氏はこの状態を持って、「資本主義は終焉した」からそれに代わる新しい体制を考えるべきではないか、という提言をしています。一方で米国や欧州の巨大資本家は経済が回らなくなった状態を脱するために、出来上がった秩序をもう一度破壊するために「第三次世界大戦」を起こそうとしている、所謂War economyによる経済活性化を試みていると思われます。ロシアをけしかけて、中東やウクライナで何とか戦争を始めさせようとした試み(ことごとく失敗しましたが、未だにトランプのロシア疑惑を執拗に追求し、ロシアに経済制裁を課す事でプーチンが怒り出して戦争になるようにしていますが)ました。ISISが消滅したことで、中東で大規模な戦争がおきなくなったので、今後は北朝鮮、中国の火種で戦争がおきなければもう第三次大戦はおきないでしょう。War economyによる経済活性化ができなければ、旧来の資本家がいままでの資本主義のありようで繁栄を続ける事は不可能になります。
ここから先は素人の夢想になりますが、私はこのどうしても蒐集してしまう資本の管理を個人ではなく国家や共同体、或は人格を持たないブロックチェーンのような物が代行することで労働者である国民に富の再分配を強制的に行って行くようなシステムができないものかなあ、と考えます。これは新手の共産主義と言われかねませんが、所詮生まれてくる時も死んで行く時も人間は無一文なのですから、使い切れないような資産を残す必要などない(資産家の人はこのような考えは絶対持てないでしょうが)と私のような庶民は考えます。第三次大戦を起こされて、恨みもない人同士が殺し合いをして経済をスクラップ&ビルドさせられるよりもマシではないかと私などは考えますがどうでしょう。