珍しく活字の写真の中の文字を書き写す→『“妊娠中の女性に過大なストレスがかかると自閉症児が生まれやすい”ということはほとんど誰もが知っていることである。』 って、
西部邁の周りにそれを「知っている」人が2人(例えばだ)いるからといって、
いや16人いたにせよ、こう書いてしまうか。学者・元でも現でも・が。
**こういうものはたぶん多数あるのだろうけれど。
【 以下、『ファシスタたらんとした者』重ね加筆 】
西部の繰り言モザイクな博覧強記への理解など普通預金金利の数十乗である私が書くのはいつもどおり、フンイキ印象だ。おまけに読了する気は僅少という以前の斜め眺め飛ばし流し四分の三。
たまたま垣間見た録画からの恣意的(反比量)引用。沼野充義がNHKでレムのソラリスを解説する中の一端。
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人間ってのはだんだん傲慢になって自分の理性が絶対だと思うようになると、 何でもわかってしまうと。世界も宇宙も。そういうふうな立場になりがちなんですけれども…
大中略
絶対的なイデオロギーって、ある種の政治でもまあ哲学でもいいんですけど思想があって、もうその枠組みでしかものを見ない。これだけが正しいんだという見方ですね。ですからそれは共産主義であってもナチスドイツであってもその種の絶対的なものを押しつけてくるイデオロギーだったと思いますけど、彼はやっぱりそういったものに疑いの目を向ける…
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ここでの前項と後項が回文をなすような。その文章は問いかける形もたまにとりながら疑いの目を向けながら、何でもわかっている自分を届けたい。思いがけないほどに妻との相互愛着(私にはほぼ気高く映る)が顔を出し、後半には常にその存在が文章を物体としていだいている気さえする。その説く国体護持論の次元と、これまた偶々見た録画NNN「記憶の澱」の次元は、乖離して当然なのか、と惑う。
人と人、生と生、思いと思い。
戦争が大義の一隅で肉体と精神の瀬戸際をたやすく消す事実。
あれはドローンのいまはむかし。
誰ぞのゲームなのか自身の意志なのか。じべたのあまたの愛着を消す事象と西部の家族単位を基とする話はどこまでも別の話なのか。米国の奴隷か戦力保持かの二者択一が唯一なのか。
西部は人たらしの才に長けたひとだろう。多くが去った以上に多くをたらしてきただろう。それは、たらし得るかたたかいを続けるのかとみずからに問うかのように人に投げるほどの才かとなむ。