持つ力の種類が多くなればなるほど、ひとの想像力は新たな力へと及んでいき、例えばある一つの力を持たない者への想像力は、何らかのきっかけなしには及ばないものではないかと思います。私には幾つかの凹みがあり、そのためなのかどうか、別の凹みについても自分の凹みと似て感じてしまうところがあります。
■透明人間について
私も、複数でシゴトに行くと、私が責任者として最初から話しかけているのに、答えが同行者にばかり向かって発せられることが少なからずあります。川田さんの文章を見て、ああ透明人間か、これこそ私だと思ってしまった次第です。
■サングラスと目の開示について
健常者というのは、つまらない可視物に簡単に左右されます。おできができている、目が左右に離れている、例を言ってはきりがありませんが、つまり可視的印象で他人をカテゴライズすることは、その度合いはともかく、かなり多い現象です。ですから、サングラスの申し出を受けることは川田さんの主義には反しても、障害に対しての差別を容認することとは一概には言えません。
自信を反映した快い表情と明るく確かな意思表示で最初から対すれば、川田さんも私も透明人間扱いまではされないと思います。
夢を持って努力をすれば必ず実る、と言います。また、そう言えるのは実った者だけだ、と言うこともよくあります。部分的に実った者がそれを言うときに、すべてを実らせられないその背景や理由を述べる中に、ともに闘う味方の瑕疵をちりばめるのは損ではないでしょうか。
それを言う思いは私の乏しい想像力の範囲で想像はできますが、言いたいのは仲間うちの敵ではなく、その相互システム的な瑕疵であり、根っこひとつであるという印象が散逸しないほうがいいと思いました。断絶的なウチソトでは、仲間であるか敵であるかのいずれかでしょう。
期待に応えようとしながら北海道に逃げてしまった話は、書くことに勇気が要ったのではないでしょうか。障害ゆえではあっても、その結果的事実が障害の有無にかかわりなく感情移入できる箇所です。涙が出たのは、サンクスのKちゃんのお話。最後のほうのお母さんのお話は美しい。望まないこと、望まれたこと。望んで障害にはならない。でも(これはタブーかもしれませんが染色体云々以前に)望まれて生まれてくることを、だれもが得られるというものではありません。
たてまえニッポン。きれいごとばかり言う。とおっしゃるなら、
「差別なんてこの国には、ええ、ありませんとも、ミナサンいいひとばっかり。差別はないんですけどね、バリアは実際ちょっとスゴイ!」
から始めるとか。あー、すみません、だめですね。
きれいごとを逆手にとることのほうがいいです。
まず出ていくこと、そして出た人の好印象にかかっています。
健常者にとって未知の川田さんの思いを伝えようとしている本に対して私が書いたことはたぶん川田さんには既知のことであり、むだな時間をおわびいたします。ワカッテナイ重箱の隅つつきをしているヒマに何かすることがあるのかもしれませんが、何か運動をする気は正直ありません。困っているかもしれない人にどこかのお店で気がついたら声をかけること、川田さんが国政に立候補したら投票を考えることぐらいでしょうか。
と、ここまで書いた翌日、ふと、「健常者のためにつくられている」と目の前のものについて思う文の主語が「何もかも」になったりしてしまうんですね。道具、人間のつくってきたものはほとんどそういうことでしょう。
みんな道具に振り回されています。逆に振り回してみせてください。杖かATMかヒトか、差別という同じ言葉を使うけれども、人種とか性別、容姿、経済、思想などでの差別とは違う、それを感じさせるものの多くが道具というものの周辺にあるのではないか。
道具被差別当事者・当人が差別者側の意識をかえるには、過去から、そして未来にはより優位に人間の意識をコントロールするであろう道具の世界をコントロールする側に立つ。川田さんの文章からは、治外法権に置かれているともイメージされ、もしそうであればそれがナニカ有効に生かされないかというイメージを誘引しました。
「それでちゃんと読んだの? 大事なことがすべて抜けている」?
ごめんなさい、と言うしかありません。^_^; m(_ _)m
──────
視覚障害の方の本音に触れ得る貴重な資料です。
目からウロコというより、おまえの頭で理解できるかと突きつけられることもありましょう。
■透明人間について
私も、複数でシゴトに行くと、私が責任者として最初から話しかけているのに、答えが同行者にばかり向かって発せられることが少なからずあります。川田さんの文章を見て、ああ透明人間か、これこそ私だと思ってしまった次第です。
■サングラスと目の開示について
健常者というのは、つまらない可視物に簡単に左右されます。おできができている、目が左右に離れている、例を言ってはきりがありませんが、つまり可視的印象で他人をカテゴライズすることは、その度合いはともかく、かなり多い現象です。ですから、サングラスの申し出を受けることは川田さんの主義には反しても、障害に対しての差別を容認することとは一概には言えません。
自信を反映した快い表情と明るく確かな意思表示で最初から対すれば、川田さんも私も透明人間扱いまではされないと思います。
夢を持って努力をすれば必ず実る、と言います。また、そう言えるのは実った者だけだ、と言うこともよくあります。部分的に実った者がそれを言うときに、すべてを実らせられないその背景や理由を述べる中に、ともに闘う味方の瑕疵をちりばめるのは損ではないでしょうか。
それを言う思いは私の乏しい想像力の範囲で想像はできますが、言いたいのは仲間うちの敵ではなく、その相互システム的な瑕疵であり、根っこひとつであるという印象が散逸しないほうがいいと思いました。断絶的なウチソトでは、仲間であるか敵であるかのいずれかでしょう。
期待に応えようとしながら北海道に逃げてしまった話は、書くことに勇気が要ったのではないでしょうか。障害ゆえではあっても、その結果的事実が障害の有無にかかわりなく感情移入できる箇所です。涙が出たのは、サンクスのKちゃんのお話。最後のほうのお母さんのお話は美しい。望まないこと、望まれたこと。望んで障害にはならない。でも(これはタブーかもしれませんが染色体云々以前に)望まれて生まれてくることを、だれもが得られるというものではありません。
たてまえニッポン。きれいごとばかり言う。とおっしゃるなら、
「差別なんてこの国には、ええ、ありませんとも、ミナサンいいひとばっかり。差別はないんですけどね、バリアは実際ちょっとスゴイ!」
から始めるとか。あー、すみません、だめですね。
きれいごとを逆手にとることのほうがいいです。
まず出ていくこと、そして出た人の好印象にかかっています。
健常者にとって未知の川田さんの思いを伝えようとしている本に対して私が書いたことはたぶん川田さんには既知のことであり、むだな時間をおわびいたします。ワカッテナイ重箱の隅つつきをしているヒマに何かすることがあるのかもしれませんが、何か運動をする気は正直ありません。困っているかもしれない人にどこかのお店で気がついたら声をかけること、川田さんが国政に立候補したら投票を考えることぐらいでしょうか。
と、ここまで書いた翌日、ふと、「健常者のためにつくられている」と目の前のものについて思う文の主語が「何もかも」になったりしてしまうんですね。道具、人間のつくってきたものはほとんどそういうことでしょう。
みんな道具に振り回されています。逆に振り回してみせてください。杖かATMかヒトか、差別という同じ言葉を使うけれども、人種とか性別、容姿、経済、思想などでの差別とは違う、それを感じさせるものの多くが道具というものの周辺にあるのではないか。
道具被差別当事者・当人が差別者側の意識をかえるには、過去から、そして未来にはより優位に人間の意識をコントロールするであろう道具の世界をコントロールする側に立つ。川田さんの文章からは、治外法権に置かれているともイメージされ、もしそうであればそれがナニカ有効に生かされないかというイメージを誘引しました。
「それでちゃんと読んだの? 大事なことがすべて抜けている」?
ごめんなさい、と言うしかありません。^_^; m(_ _)m
──────
視覚障害の方の本音に触れ得る貴重な資料です。
目からウロコというより、おまえの頭で理解できるかと突きつけられることもありましょう。
解ろうと何度も何度も読みますが、想像力の欠如か理解力の不足か、はたまた頭が悪い、と言われたらそれまでですが、やっぱり解らないのです。
だから悪いのはわたしなんですよ。
ごめんなさい。
……。
これは別に隠すことではないけれど、
最近は、いらっしゃると思わずに書いていました。
ここは、言わずもがなですが、気分はぽえむな言いっぱなし(文脈ナシにひとしいって意味)、自分でも後で読むとわからないことが多いので、ここについてはマジメに読まないでほしいのです。
あんなコメントを(する思いを)させて、すみません。