京都文化博物館
「三藐院記」 重要文化財指定記念 近衞信尹の生涯
期間:10月7日(土) 〜 12月3日(日)
前後期拝見しました。
御堂関白記 自筆本 寛弘五年下巻 藤原道長筆
平安時代、摂関政治の頂点を極めた藤原道長の自筆日記。本来自筆本は36巻あり、その内の14巻が藤原氏嫡流の近衛家に伝わった。
寛弘五年(1008)9月11日の条には道長の長女で一条天皇の中宮彰子が敦成親王(後の後一条天皇)を出産した事が記されている。道長にとって待望の外孫皇子であった。
面白いのは近衞信尹は、この自筆本の裏側に南北朝時代の近衛道嗣の日記(『後深心院関白日記』)を書写している。信尹の意図は一体何だったのか?謎である。
和歌懐紙「侍 行幸聚楽第」 近衞信尹筆
天正20年(1592)正月二十六日、後陽成天皇が関白豊臣秀次の邸宅である聚楽第に行幸。
本作は最終日の二十八日に行われた和歌会での左大臣・近衞信尹(当時は信輔)自らの詠歌を書き付けたもの。
その書は伝統的な青蓮院流を基礎としつつも、後年大成する近衛流の萌芽をのぞかせる。
この頃の近衞信尹は懊悩の中にいた。関白職を豊臣秀吉に奪われ、更には秀次がその後を継いだ。もはや関白への望みは無くなったのだ。
更に天皇の還幸の列に加わっていた信尹に京童からの嘲笑が待っていた。
我慢の限界、信尹は突如として左大臣を辞した。三十日には京を出奔し大和にいる兄の尊政の許に身を寄せている。
三藐院記 別記 関白宣下記 近衞信尹筆
慶長10年(1605)7月23日、近衞信尹は待望の関白となった。
本作品は宿願であった自身の関白任官に関する朝廷より下された一連の文書筆写したもの。
関白宣下の儀式は上卿に花山院定熈、職事に烏丸光広が任じられて行われている。
はじめに関白宣旨、次いで関白詔書、随身兵仗勅書など計八通が披露された。
待ち望んだ関白の座であったが、翌11年11月11日に関白を辞している。
他に三藐院記が7年分、前後期で展示されている。その中には伊達政宗、黒田如水・長政、福嶋正則、島津義弘など戦国大名との交流が記されている。
伊達政宗、福嶋正則、島津義弘の3人は書置に形見分けとして何かふさわしいものを贈るように指示しており、相当の仲であったのであろうと思われる。