そして主役はこの人!高山右近
高槻しろあと歴史館
特別展「-発掘 戦国武将伝- 高山右近の生涯」
期間:10月5日(土)~12月1日(日)
「高山右近は、日本史上を代表するキリシタン大名で、戦国時代の高槻城主として城下町の建設を進めました。織田信長や豊臣秀吉らの思惑に左右されながらも信仰を貫き、最期は国外追放先のフィリピン・マニラで亡くなる波乱万丈の生涯でした。茶人としても知られ、その足跡は北陸の金沢や高岡など全国各地に残ります。
本展では、この高山右近にまつわる古文書や美術工芸品、考古資料などを通じ、その生涯をたどります。」(公式より)
高山右近所用 七曜紋金具南蛮兜
南蛮製の兜に日本製の眉庇や錣を付けた兜。正面に右近の家紋とされる七曜紋の金具が2つ付く。
中川清秀 肖像画
清秀の墓所がある梅林寺蔵。賛に天正十一年(1583)とあり、賤ヶ岳の戦いで戦死したすぐ後に描かれたと思われる。
中川清秀は高山右近と従兄弟の関係。また妹が古田織部の正室であり、その関係であろうか清秀の死後に家督を継いだ中川秀政の後見人を織部が務めている。
一説では茶の湯嫌いであった織部が一流の茶人となったのも清秀の影響があったようで、清秀・右近・織部の間には一種の連帯意識があったよう。
羽柴秀吉書状 中川清秀宛
梅林寺蔵。天正十年六月五日付で秀吉から清秀に送られた書状。六月二日に本能寺の変が起った3日後に書かれ、内容は「信長様・信忠様は無事に膳所ヶ崎(近江)に逃れた」と大嘘をついている。
また文中に「古左」とあるのは古田左介、後の古田織部の事。当時中川清秀と織部は行動を共にしていた様子が窺える。
高山右近書状 藪内剣仲宛
約束していた茶会に「古織部殿(古田織部)」と共に招くと記された書状。署名の「寿」は洗礼名の「ジュスト」の事とされる。
藪内剣仲は武野紹鴎の弟子で茶人。織部の妹を妻としている。
一説では右近も織部の妹を室としたとあるが、これは誤りであるらしい。
共筒茶杓 銘 御坊へ 高山右近作
櫂先は長く折撓。非常に侘びた風情を持つ茶杓。共筒は一風変わっていて竹の地下茎を用いて作られている為に曲がりくねっている。一目見て忘れ難い印象を持つ。滴翠美術館蔵
「日本教会史」を著したロドリゲスは「右近は神に祈る為に茶室に篭った」と記し、織田有楽は右近の茶を「清めの病」があると評していた。右近の茶の湯がキリスト教と関係している事を示唆する言葉だが共筒の「花十」の署名にもそれが表れている。
千利休書状
宛先不明の書状。内容は庵の裏に一畳半の座敷を造った事を高山右近・蒲生氏郷・細川忠興・瀬田掃部・古田織部に知らせている。後に利休七哲と呼ばれる事になるうちの5人の名前が登場する。もしかして宛先の人物は芝山監物か牧村兵部か・・・想像の膨らむ書状です。
古田織部茶事相伝之書
織部より郡宗保に与えられた免状の写本で283ヶ条より成り、織部の茶事を知るうえで貴重な書物となっている。
郡宗保は荒木村重や豊臣秀吉・秀頼に仕えた武将。
大坂夏の陣で敗れると城内にて自害した。そして茶の湯の師である織部もまもなく自害する事となる。
見たかった「御坊へ」の茶杓を観る事が出来ました。写真では奇を衒ったように思えた筒でしたが実際に拝見すると実に自然であることが分かる、まさに清廉とした印象でした。
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