大阪城天守閣 特別展「秀吉への挑戦」
「豊臣秀吉は、本能寺の変の後、山崎合戦や賤ヶ岳合戦など史上に名高いいくさを勝ち進み、中国の毛利氏や四国の長宗我部氏、九州の島津氏に代表される各地の武将たちをつぎつぎに従えて、天下統一を果たしました。本展覧会では、秀吉がその過程で戦った武将たちの生きざまをゆかりの資料で紹介しながら、秀吉という人物、さらには秀吉の築き上げた豊臣政権の性格についてさぐってゆきます。 」(公式解説より)
今年(2010年)の特別展は力入ってます。
展示は7つの章に分かれており、それぞれ各地区の秀吉挑戦者を取り上げています。ここでも章毎に注目の展示品を紹介したいと思います。なお展示替があったので2回観にいきました。
「第一章 九州の挑戦者」
九州の挑戦者は島津氏。ですが展示数が少なく、秀吉関係のものも合わせて展示してあります(それでも最小の10点)
羽柴秀吉書状(嶋津修理太夫宛)
国宝。関白秀吉が私戦を止めるよう島津義久に宛てた書状。しかし島津氏はこれを無視し九州統一へと邁進していく事になる。
島津義弘 肖像画
義久の弟。島津四兄弟の次男。数々の戦で戦功を上げ島津氏の領土拡大に貢献するが、1587年豊臣軍の前に降伏。その後は兄義久が豊臣政権と距離をおいたのに対し義弘は協力的であり島津家の存続に奔走する事となる。
「第二章 四国の挑戦者」
四国の挑戦者は長宗我部氏。点数は前章に次いで少ないものの充実した内容。
長宗我部元親 肖像画
重文。元親の死の直後に後継である長宗我部盛親の依頼で描かれた画。
初見ですが、あの特徴のあるヒゲがなんとも印象的。
長宗我部元親所用 黒漆塗十二間突盔形兜
土佐神社に伝来。「黒漆」は現状ほとんど剥落している。黒一色ではなく内眉庇は朱塗りであったらしい。
香宗我部親泰所用 金茶威二枚胴具足
前立は金箔押しの三本笹。親泰は元親の実弟で香宗我部氏の養子となった人物。
上記2点は以前高知県立歴史民俗資料館で観た事があり、その時は長宗我部元親の嫡男信親の具足と3点が並んで展示してあり感動した覚えがあります。
仙石秀久所用 革包伊予札菱綴二枚胴具足
熊毛植えの総髪形兜で前立は宝珠。
1583年膨張する長宗我部軍の抑え役として四国に派遣された仙石秀久。しかしながら引田合戦で敗北している。1585年の四国征伐では戦功をあげ讃岐高松城主となるが、1586年の九州征伐では先発となる四国衆の軍監でありながら無謀な戦を仕掛け島津勢の前に敗北、なんと讃岐まで逃げ帰り「三国一の臆病者」と罵られた。この戦で嫡男信親を失った元親は家督相続問題で次男・三男では無く四男の盛親を指名し反対した家臣を粛清している。この事は元親死後の長宗我部家に暗い影を落とす事となる。一方の秀久は敗戦の責任で所領没収となったが後に大名に復活している。
「第三章 中国の挑戦者」
中国の挑戦者は毛利氏。秀吉との戦の焦点となった「高松城水攻め」の資料も多い。
小早川隆景 肖像画
重文。隆景の生前に描かれた画(寿像)だそう。毛利元就の三男で兄の吉川元春と並んで「毛利両川」と称される。
毛利輝元所用 赤糸威胴丸具足
厳島神社に奉納された甲冑。鎧は古式な胴丸だが、兜は椎実形で前立は円形板に桐文を透かしたものとなっている。新旧のいい所を採ったバランスの良い一領。
清水宗治所用 六十二間小星兜
脇立ては鍬形。前立は日輪。展示は兜だけだったが実際は胴・小具足類も残っている。ただし宗治時代のものは兜鉢だけらしい。
「第四章 畿内・近国の挑戦者」
ここでの挑戦者は明智光秀、そして雑賀衆。
明智光秀 肖像画
明智光秀 木造
別々にでは以前両方とも見た事があり、肖像の穏やかな顔と木造の怒りの表情どちらが本当の光秀なのかと思ったものだが、こうやって両方並べて展示してあると両方光秀を表したものだと思えてくる。陰陽、善悪といったものだろうか。
斎藤利三所用 矢羽根紋陣羽織
薄い布地で作られた夏用の陣羽織。利三は明智光秀の重臣。
明智光春所用 鮫革貼鞍・鐙
左馬助光春が伝説の「湖水渡り」で使用したとの伝承が残る。
鉄錆地雑賀鉢兜
紀州雑賀で造られた兜。異国情緒漂う造りである。
「第五章 東海の挑戦者」
東海の挑戦者は織田信雄と徳川家康。小牧長久手の戦を中心に紹介されている。信雄・家康より丹羽氏次の展示が多い(5点)。
池田恒興所用 日月図軍配
金地に朱塗りの日の丸が描かれている。池田恒興は長久手の戦で戦死。長男の元助も同じく戦死したことから次男の輝政が池田家を継いでいる。
「第六章 北陸の挑戦者」
北陸からは柴田勝家が登場。
柴田勝家 肖像画
勝家の遺児勝春が北庄城落城の際に託されたとされています。立花家に仕えた子孫の家に代々伝わったもの。
甲冑姿だが胴の部分が剥落している。
「第七章 関東の挑戦者」
関東の挑戦者は北条氏。
北条早雲所用 軍配団扇
初代早雲の遺品で代々の当主が受け継いだ。
北条家人数覚書
小田原征伐時、北条家中の武将その持城・戦力を記した書状で当時京都で留守居だった毛利輝元の為に戦の状況を伝える目的で記されたと思われる。「のぼうの城」で有名となった忍城も「武州をしの城」と記され登場している。
所々もう少し頑張ってくれれば、もっと凄い展示になったのに、と思うところもありますが豊臣秀吉の天下統一を追っていける良い展示会でした。初見のものも多く、特に重文の毛利輝元甲冑、小早川隆景・長宗我部元親肖像画を観れたことは大きな収穫でした。
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