豊国神社の豊臣秀吉像
大阪城天守閣
特別展 上方の家康
期間:10月7日(土)~11月26日(日)
近衛前久書状
(慶長7年)二月廿日付、三木宛。永禄9年(1566)徳川家康の従五位下三河守叙任に対応した近衛前久が後年その事を三木殿に伝えた手紙。
「三木」殿とは前久の嫡男・近衛信尹の事で、信尹の一字名「杉」を分割したもの。
これによれば、当時「松平」を名乗っていた家康の叙任に朝廷が難色を示した事から、新田氏庶流の得川氏の系図を探し出し、氏を源氏から藤原氏に名字を「徳川(得川)」に改める事で叙任を許された。
後年家康は、源氏に復しているがこれを前久は「将軍職を望んでの事」としているが豊臣政権期に既に源氏を名乗っており現在では否定的な意見が多い。
刀 無銘(名物 丈木)
慶長4年(1599年)2月29日前田利家が伏見における徳川家康との会談に際し携行した愛刀。
利家は「家康と対面して事あらば、一刀のもとに斬るべし」と意気込んだが、会談は平和裏に終わった。
刀の作者は諸説あり南北朝期の刀工・備前盛景が有力だが、他に典太光世や美濃金行ともいわれる。
伝来は、能登の武将・長景連、彼を討ち捕った長連龍より前田利家に献上され、以降加賀藩前田家に伝来した。
鳥居元忠所用 紺糸素懸威二枚胴具足
慶長五年(1600)伏見城を主君・徳川家康より預かり、奮戦の末に戦死した鳥居元忠所用と伝わる鎧。
西軍の武将・鈴木重朝が元忠を討ち捕り、この鎧を所持していたが元忠の子の忠政に形見として返却しようとしたところ忠政は感激しながらも丁重に断ったとされる。
鳥居元忠は徳川家康が竹千代と名乗っていた時代からの側近。大久保彦左衛門より「三河武士の鑑」と称された。
古田織部書状
(慶長9年)閏8月21日付、中井正清宛。伏見城小座敷(茶室)の普請が中井正清に命じられた事について、小堀遠州と私(織部)に相談して完成を急ぐよう家康より命令があったという内容。
この頃の織部は天下一の茶人としてその才を遺憾なく発揮していた時期。得意の絶頂であった。
三藐院信尹公記(慶長15年10月11月記)
慶長14年(1609)朝廷の官女と公家衆による醜聞、所謂「猪熊事件」が露見。
激怒した後陽成天皇であったが、幕府が下した処分は天皇には不十分なものであった。
ままならぬ状況に失望した後陽成天皇は譲位を表明したものの、幕府による様々な介入があり実現したのは慶長16年まで待たねばならなかった。
この日記は、その渦中の慶長15年11月22日の条にある後陽成天皇の言葉を載せており「ただただ泣くばかりである、どうにでもなればよい」とあり天皇の胸中を知る事ができる貴重な内容となっている。
德川家康の上方での動向を中心に紹介した展覧会。初見の展示も多く楽しめました。
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