銀座松屋 8階イベントスクエア
没後400年 古田織部展
期間:2014年12月30日(火)~2015年1月19日(月)
前・後期拝見しました。
豊臣秀吉朱印状
七月廿七日付。天正十八年(1590)奥州仕置を終えた秀吉の命により岩槻から小田原の道中に宿泊所を普請する役を織部や瀬田掃部が命じられている様子が文中に見られる。秀吉政権下での織部の役割の一端が分かる内容。
古田織部書状
(慶長十五年・1610)八月十五日付。小倉藩主・細川忠興の家老・松井康之宛
内容は1.古瀬戸肩衝茶入の鑑定2.皿(向付?)を焼いてもらったがあまりよく無いので、もう一度焼いて欲しい3.忠興より依頼の花入を伏見の細川屋敷に届ける旨が記されている。最後に病も癒えたので江戸に出発し、来春会いましょうと結んでいる。
2の焼物は忠興が焼かせていた上野焼の事とされる。内容を見る限り忠興が茶人・織部を信頼している様子が窺えます。
竹茶杓 古田織部作
織部作の茶杓は3本の展示。1本は藪内燕庵伝来、次が加藤清正の家臣で八代城主であった加藤正方(風庵)より上田宗箇へ伝わったもの、最後は家康の遺品として紀州徳川家に伝来した茶杓。
藪内燕庵伝来のものは、蒲生氏郷の茶杓(東博)にどこか似た荒めの作品。上田家伝来は長くぐぃと上がった櫂先と蟻腰が特徴の基準的な作品。紀州徳川家伝来は節上途中から色の変化が見られる優美な作品。
古田織部・近衛信尹勘返状
織部の翌朝訪問の旨を記した書状に、三藐院が返事を書いている。この織部と三藐院の勘返状は数通伝わっており両者の親密な関係が知れる。晩年の2人は連歌を介し親交をもっていたが、どうやらそれだけではなく徳川と豊臣との関係を憂いていた様子。
憂いは現実となり慶長19年(1614)大坂冬に陣が始まり、ほどなく三藐院は亡くなる。そして大坂夏に陣の後織部も切腹となった。
竹茶杓 細川三斎作
白竹、節のあたりに虫喰がある。利休の茶杓に似ているが櫂先が急角度で曲がっている。
筒は三斎が杖に用いた松向寺村の竹だそう。
織部袂香合
小さな織部焼きの香合。白地に緑釉が掛かり間垣と梅鉢文が描かれている。
織部が袂に入れて持参した事から袂香合とよばれる。また箱書きには「古織より到来」と記されている。
藪内燕庵伝来。
昨年(2014年)の「大織部展」に続く古田織部の展覧会。2つを比べると、片や織部自身に焦点をあて片や織部の時代に焦点をあてている。
紹介されている焼物にも違いがあり、織部焼を中心に美濃焼が大半を占めているのは変りないが、他の日本の焼物では大織部展が萩焼が、古田織部展では唐津焼が多いといった違いがみられます。
この古田織部展は広島、滋賀と巡回するので織部に興味がある方は是非見ていただきたいと思います。
最近の「探訪」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事