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茶人訪 京都編 正伝永源院

京都

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正伝永源院
建仁寺塔頭のひとつ。長い名前ですが元は正伝院と永源庵2つの寺院。廃仏毀釈で廃れた後に統合。現在の名称に落着きました。
正伝院は織田有楽縁の永源庵は細川家縁のお寺でありお墓も有ります

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細川家歴代の墓

そして
寓居の地であった関係でしょうか

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福島正則と家臣の墓も有ります

そしてそして

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織田有楽斎の墓
元和4年(1618年)有楽は正伝院に隠居所を持ち茶室を造っている。

有楽はご存知、織田信長の弟。豊臣秀吉・徳川家康の時代を生き抜いた武将であるが、茶人として高名。
利休の高弟とされるが、遠州曰く「利休の茶風はみられない」。また織部の破格の美とも三斎の利休墨守の茶とも違う独自の饗応の茶であったとされます。

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寺宝としては、狩野山楽作の蓮鷺図や織田有楽肖像画に北宋の皇帝徽宗の作品とされる架鷹図等が見られましたが、茶道具も有りました。
共筒茶杓 銘 落葉 織田有楽斎作
蟻腰・折撓めの茶杓。露は丸形で樋が深い。
象牙茶杓 千利休作
黄白色の象牙茶杓。変わっているのが追取の部分がやけに短い事。最初からなのか折れたのかは不明。
豊臣秀次から織田有楽に贈られた。
赤楽茶碗 織田有楽斎作
ツヤのある赤楽で窯変による黒緑色の部分が所々胴にみられる。また胴部分には有楽の花押が刻まれている。
武将による作陶では上田宗箇が有名だが、有楽の茶会記には自作の茶碗を使った旨が記されている。また長次郎作とされる「臨済」も有楽の作との異説もあり、有楽も作陶をしていた可能性は高い。

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茶室「如庵」写し
有楽が正伝院に造った茶室、実物は犬山にある。

烏丸御池

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二条御所跡

天正10年(1582)6月2日本能寺で織田信長を攻め滅ぼした明智光秀は、次いで二条御所を囲み織田信忠に腹を切らせた。
そんな京を脱出する男がひとり、織田源五長益後の有楽斎。強力な光を放つ兄の影に隠れていた男は、その兄の死を受けて呪縛から開放されたかの様に動き出した。己の道を歩む、たとえ人々から「織田の源五は人ではないよ」と言われても。それはまるで自由への疾走だった。
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