今回も太宰府
九州国立博物館
室町将軍 - 戦乱と美の足利十五代 -
期間:7月13日(土)〜9月1日(日)
布袋図 伝牧谿筆
太鼓腹を摩りながら笑う布袋を描いた作品。上部には南宋時代の僧・簡翁居敬が賛を記す。
永享九年(1437)後花園天皇が室町幕府六代将軍・足利義教の自邸を訪問した際に、会所に飾られた道具を能阿弥が記した「永享室町殿行幸御飾記」の筆頭にこの「布袋図」は位置していた。
この足利家伝来の重宝はしかし、この後将軍家を離れている。
三条西実隆の日記「実隆公記」明応七年(1498)四月二十六日の条に土倉(現在の金融業者)の者が実隆の所を訪れ「布袋図」を幕府に買い戻して欲しいと仲介を依頼し、その了承を足利家から得たことを記している。
一旦は足利家に戻った「布袋図」だったが、今度は堺の商人・大和屋正通が所持することになった。
「天王寺屋会記」永禄十年(1567)12月に津田宗及が千利休等と共に大和屋正通の茶会に呼ばれた際にこの「布袋図」を拝見し、その詳細な内容とスケッチを残している。
そこには5つの印章が捺されている事が記されているのだが、現在の「布袋図」にはそれが無い。
この後「布袋図」は同じ堺の商人・万代屋宗安、豊臣秀吉へと渡ったが大坂城が落城した際に焼けてしまったらしい、がその後徳川将軍家に渡っている。
一説には上杉謙信が所持したともされる「布袋図」。5つの印の有無などいくつもの謎があるものの、この「腹摩り布袋」が幾多の天下人や茶人を魅了した事実は揺るがない。
連歌懐紙
愛知県・圓福寺蔵。永享四年(1432)足利義教が富士遊覧の途中、圓福寺で催した連歌会で詠まれた連歌を記した懐紙。
この富士遊覧では他に駿河守護・今川範政との連歌会を催しており、翌永享五年(1433)には北野社において一万句の連歌法楽を催している。
永享年間の足利義教は毎年のように北野法楽万句を興行し、自らの権威に利用してしていたが、その興行は永享十三年(嘉吉元年)が最後となった。
この年の6月24日に赤松満祐・教康父子によって義教は暗殺される(嘉吉の乱)。
さて今回の展示では京都・等持院から将軍像13軀がお出まし。なんと撮影もOKとなっていました。
等持院でも撮影はNGなのでこれは貴重。
全てを紹介するのも何なので
初代・尊氏
最後の将軍・15代・義昭
この他にも名物の二ツ銘則宗・大般若長光、足利義昭から島津義久に贈られた康次。東山御物の中国絵画に油滴天目茶碗・松屋肩衝茶入など盛り沢山でした。
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